ことばの0からのビジネス~ゼロビジブログ~

大阪の福祉施設で働く社会人である「ことば」が インターネットでお金を稼ぐ(月500円でも!)ことを 目標に、ブログを更新しながら ビジネス関連の学習、日々の好きなものや作品、 楽に仕事と向き合うための考え方や、 対人関係での悩みを減らすための価値観をお勉強していきます。 漫画、イラストを描くのも好きです。 記事内のイラストは、ぜんぶ描いています( *´艸`) もっと増やしていきたい・・! よろしくお願いいたします。

タグ:悩み

ひていしたくないことは2
こんにちは、ことばです( *´艸`)

今回のテーマは
「人を否定しない考え方の
メリット、デメリット」
です。

ことばも常に悩んでいる
「人を傷つけない伝え方」
「表現方法」
のお話です。

「否定しないことにデメリットがあるの?」
って、疑問に思われるかも知れません。

「人を否定することを否定しつづける事」
には、明確にデメリットがあります。

今回は、その辺の考え方と
克服方法を考えていけたらと思います。

よろしくお願いいたします。

【人を否定することが嫌い】

あなたは、他人のすることや考え方が
自分と違う時、どういう行動をとりますか?

ぼくは、自分の立場や関係性と
照らし合わせて、自分と関係が深い人ほど

今後のお互いのために
考え方の違いについて
話をする機会を持とうとします。

それは「その人との関係を
今後も続けていきたいから」
という
理由に集約されます。

自分が正しいと思っているわけではなく
お互いの考え方の違いを
お互いが知っておくことで

必要のない摩擦を減らして
気持ちよく過ごしていくためです。

実際に何度も会ったり、遊んだり
お互いの内面を話したりするような人
でなければ、相手の考え方が自分と違っても
指摘したりすることは、自分はありません。

ことばの指向として、恥ずかしい話ですが
「人そのものへの興味が薄め」です。

他人がどんな行動をしても、自分や周囲に
強い影響が出なければ、良いかなと思います。

ですので、メディアの大衆の興味を
引くための、あえてのネガティブな報道や
有名な人の事件などには
あまり興味を持てません。

でも大多数の人は、そうなんじゃ
ないかなと思っています。

他人の人生の出来事の情報をいくら仕入れても
自分の人生は好転しませんものね💦

今回は、飽くまで個人的なお話なので
メディアの在り方や、仕組みに
言及したいわけではありません。

次の項目から「否定しないことの
メリット、デメリット」
をお伝えしますね。

【人を否定しないメリット】

そもそも「人を否定しない」とは
どういうことでしょうか?

否定の意味ですが
「そうではないと打ち消すこと」
とあります。

相手の提案や考え方に対して
「それは違う」「その考え方ではダメだ」などと
打ち消す行為を指します。

他人の意見を否定しない対応は
人間関係を作る上では色々なメリットがあります。
例えば・・

・相手との関係が良好になる

・議論が建設的になりやすい

・周囲の評価が上がり
より相談されやすくなる


などなど、
なんとなく想像が付きやすい
かなと思います。

相手が
「こういうのではどう?」
みたいに提案してきた時
「いや、そうではなくて自分はこう思う」
みたいに

否定から会話を始められると
相手が受ける印象として

「提案を否定された」という印象でなく
「提案をした自分自身を否定された」ように
感じてしまいます


相手の提案に対して、自分の意見が違う時も
「なるほど。自分はこう思うよ」のような

「肯定」から会話を始めると
相手の自尊心を刺激せず、適切な議論に
発展しやすいため、相手との関係が
良好になりやすい
といえます。

つまり、議論をする時や自分の考えを
相手に伝える必要がある時には

相手の考えを否定してから
自分の意見を言う流れの方が
なんとなく筋道が
立っているように感じてしまいますが

「相手の考えを否定するプロセス」を
挟まなくても、結果は変わらず
会話は成立する
という事ですね。

このように
「人を否定しない事」には
様々なメリットがあり、それに関して
たくさんの書籍、記事、動画があります。

では、ことばのように「人を否定する事は悪い事」
みたいな考え方が、自分に根付いてしまった場合は
どうなのでしょうか。

次の項目から、本題に入りますね。

【人を否定しないデメリット】

では、人を否定しないデメリットを
考えていきたいと思います。

これは
「すべての事柄において、人を否定する対応に
苦手意識を感じている」

自分自身の悩みでもあります。

人を否定しないデメリットは以下の通りです。

・人に指摘が出来なくなる

・合理的な判断が出来なくなる

・興味の幅が狭まり、人への関心が薄くなる

・「否定された時」の耐性が獲得しづらい

・「優しい人間」と誤解されやすい


それぞれ、細かく掘り下げていきますね。

★人に指摘が出来なくなる

自分は、仕事の役割として
職員さんに指摘をしなくては
ならない立場です。

「指摘」の意味ですが
「大切な点や注意すべきこと、欠点や過失などを
具体的に取り上げて指し示すこと」
とあります。

仕事として適切でない事を相手が実施した時
それを際立たせて自覚させ
言葉や行動で矯正させるのが
指摘する役割を担う人の仕事です。

つまり「価値観の上塗り」をするわけですが
常に悩みを抱えながら指摘をしています。

例えば、職場は介護施設なのですが
若い職員さんが不織布のマスクではなく
ウレタンのマスクで勤務をされていたとします。

マスクごとの性能差は、世間に周知されて
いますので、より性能の高いマスクを使用して

現場に入る事がベターなのは
お分かりになるかと思います。

こういう状況の時、あなたでしたら
何と言って指摘をされますか?

「〇〇さん、介護施設ですので
仕事中は施設に常備している
不織布のマスクで勤務して下さいね」

これで、いいじゃんと思われますよね。
いえ、ぼくもこれでいいと思います。

ぼくは指摘の前に、下記のような事を
ごちゃごちゃ考えてしまうんです💦

「この人なりの事情があるんじゃないのか?」
「そもそもマスクのデータは信頼できるのか?」
「本当にそこまでしないといけないのか?」
「自分も大衆に迎合されているだけではないのか?」
「自分の伝え方が悪くて、この人の価値感に
影響を与えてしまったらどうする?」


などと逡巡して、結局

「でも仕事なんだから。万一、利用者様が
感染症に罹って、一番傷つくのは誰だ?」

「自分が嫌われて、施設を守れるなら
それでいいか」


という思考に落ち着いて、ドキドキしながら
タイミングを見て指摘・・という
パターンが常です。

指摘ひとつで結構疲れているのですが
それも「人を否定する=悪い事」という
価値観が、ベースにあるからかなと思います。

★合理的な判断が出来なくなる

「人を否定する事を否定する考え方」
は、フラットなものではありません。

偏った思考というのは、その部分だけ見れば
素敵だったり、魅力的だったりするものですが
裏側から見ると、歪んでいるのかも知れません。

物事の理屈に照らし合わせて判断する
合理的な考え方ではなく、表層の感情の部分で
判断しているため、

否定することを否定する価値観のままでは

結局は、大局を見通せず失敗してしまう事が
多いのではないかなと思っています。

★興味の幅が狭まり、人への関心が薄くなる。

「人の事を悪く言うのが苦手な人」は
人から信頼されやすいです。


ですが、人が持つ独特の「おかしみ」ですとか
「滑稽さ」のような、思わず吹き出して
しまうような、ユーモラスな場面でも

「これを表現するなんて、悪い事だ」と
自分の想像力に蓋をしてしまいます。

「他人を表現しようとしない人」は
繊細な感性を育てる土壌を
自ずから、手放しているような印象
があります。

ぼくが正にそうです。

ユーモアが乏しく、お話をして人を笑わせたり
楽しませたりといった事に、苦手意識があります。

それは、普段から他人を悪く言ったりする事が
少ないため、それが結果として

「人を言葉で表現する」能力が
磨かれてこなかったのではないかなと
考えています。

卵が先か、鶏が先かの話になりますが
自分は他人への関心が薄いです。

他者に感情のエネルギーを長期に渡り向けるには
相手と関係性を築く必要があります。

自分は他人を怒ったり、恨んだりするほど
関心を持ったり、関係性を築けなかったため

ブラックなものを含めたユーモアが、あまり
磨かれなかったのではないのかなと
思っています。

ですので芸人さんや、話術が長けている
人に憧れたり、好きになったり
するのかも知れません。

★「否定された時」の耐性が獲得しづらい

「人を否定することを否定する」という事は
翻せば「自分が他人に、否定される対応を
取られたくない」
という事です。

ですので「否定してくる人」の心理を
理解しようとする時、どうしても
負の感情が先行しやすくなります。

「自分が苦手な否定する対応を
この人はしてくる・・」


という状況に、平静ではいられなくなり
相手の思考や自分に伝えたい事を
汲み取れない事が多くなるかと思います。

★「優しい人間」と誤解されやすい。

「優しい」とは何でしょうか?

「人を否定しない」ことが優しいのであれば
「何もしない傍観者」も優しいといえると
ぼくは思います。

無人島でひとりになった、何も出来ない人に
魚の捕り方ではなく、魚をただ渡して
去っていくだけの人も優しいです。

野良猫に餌をあげる人も優しいです。

子供が転んだ時、手を差し伸べて
立たせてあげる人も優しいです。

優しいと形容される行動が、一面的で
一方通行な時、それは「優しさ」ではなく
「エゴ」と形容されるべきものかも
知れません。

ぼくは自分を「優しい」とは思いません。

「人を否定しない」のは「自分のため」
「自分が社会の中で、摩擦なく生きていくため」
の行動だからです。

以上のように
人を否定する事を否定してしまうと
様々な自己矛盾に囚われてしまう事が
一番のデメリットなのかも知れません。

【まとめ】

今回は「人を否定しない考え方の
メリット、デメリット」
という内容で
書かせて頂きました。

・・すみません、後半の内容は
とても共感できるものでは
なかったと思います💦

社会で生活をしていく上で
「人を否定しない対応」は
是非とも身に着けるべきものです。

人との無用な軋轢や諍いを回避し
「肯定する対応」によって、あなたが
信頼の置ける人を、どんどんと
増やすことが出来るからです。


自分の場合、この否定しない考え方の
根幹は「自己評価の低さ」に由るものです。

「自分如きが他人を否定するなど何様だ」
という偏った価値観
思考が形を成したものなので

それを先述したように「優しい」などと
形容されると違和感や、罪悪感を覚えます。

物事は一面的に捉えると、どうしても極端に
寄ってしまいますが、本来多面的
です。

「弱者」や「繊細な感性」を持つ方が
主張する事柄が、必ずしも正しいわけ
ではありません。

自分の中の「正しさ」とはなにか。
考え続けたいと思います。

結論
「人を否定しない考え方」は
あなたを少し生きづらくするかも知れません。


でも、そんなあなただから
人に信頼され、人の中でより良く
生きていけるのだと思います。

辛い事があっても
一緒に生きていきましょうね。


ことばでした。
読んで下さって、ありがとうございました( *´艸`)

からだはることは
こんにちは、ことばです( *´艸`)

今回のテーマは
「反応をすることが、いかに大切なのか
改めて考えてみる」
というものです。

ぼくが出来ているから
あなたもこうしてみたら?

みたいなお話ではなくて、相手の行動に対して
自分が常にどういう対応をすれば

相手が楽なのか、気持ち良くなって
もらえるのかを考えて、実践出来たらいいなぁ
という

言わば「願望」です💦

ちょっと分かりにくいでしょうか?
なるべく伝わるように、書かせて頂けたらいいなと
思います。よろしくお願い致します。

【リアクションとは】

「リアクション」の意味ですが
「外からの働きかけを受けた事で生じる
反射的な対応」
の事です。

英語のreactionが由来で、カタカナ表記が
浸透していますね。

行為、動作を表すaction(アクション)
再び、新たに、反対などの意味の「re」を
つけると「re-action」リ-アクションとなります。

自分主体で発信することではなく
「相手が発信したことに対しての自分の反応」
差します。

ぼくは、リアクションという言葉を聞くと
芸人さんを連想します。

漫才における、ボケに対してのツッコミ
「なんでやねん!」もリアクションですよね。

ボケを活かすのも、腐らせてしまうのも
ツッコミの役割の人のリアクションが
大事だったりします。

芸事だけのお話ではなく
日常で日々、他人とコミュニケーションを
とっていると、改めてリアクションって
大事だなと感じる機会が多いです。

【意識した経験】

自分が普段、他人にどういうリアクションを
取っているのか
って、あなたは意識したこと
ありますか?

ぼくは、現在の仕事(介護職です)を始めてから
意識するようになりました。

介護職の前は、店舗で接客業をさせて
頂いていました。

自分では全く意識していませんでしたが
当時、ぼくは身振り手振りを交えた
過剰なリアクションを取っていました。

同じアルバイトの先輩に
「お前って、なんでそんな演劇みたいな
リアクションなん?」
みたいに
イジられた事もあります笑

後で考えた時に、自分に自信がないぼくは
言葉に添えた、ボディランゲージで
想いを相手に伝えようとしていたのかなと
納得しました。

当時は無自覚で、コミュニケーションの齟齬が
ないように必死だっただけなのですが

過剰なリアクションは、どちらかといえば
好かれていたような印象


過剰で気持ち悪いとか、変な奴だななどの
悪印象を、相手に与えていたわけでは
なかった
ようです。

【プロのリアクションから学べること】

プロのリアクションとは
どういったものでしょうか?

俗にいう「イジられ芸人」というカテゴリに
括られる、芸人さんのリアクションは
プロそのものですよね。

番組の企画で、痛かったり、熱かったり、寒かったり
する色々な何かに挑戦して、
笑いを生み出されているわけですが

視聴者であるぼくらは「何を見た瞬間」
それらを「面白いと捉える」のでしょうか?

世代が限定されるかもですが
ダチョウ倶楽部さんの熱湯風呂における
一連のリアクション
を例に、考えてみますね。

①アクリルかなにかで出来た、透明な浴槽に
熱湯が並々と注がれています。

②番組の流れで、上島竜兵さんが
その浴槽に入らざるを得なくなります。

③周りの人たちがそれを「手伝う」という名目で
上島さんの背中を押そうとします。

④自分のタイミングで入りたい上島さんが
その時「押すなよ!絶対に押すなよ!」と
叫んで、周囲を牽制します。

⑤上島さんの願いも虚しく、目を逸らした瞬間に
周りに背中を押されて、熱湯風呂にダイブします。

⑥自分のタイミングで入れなかった上島さんは
吃驚した気持ちと熱湯の熱さを、身体の全身と
大声を使って表現します。

⑦熱い熱いとのたうち回りながら、普段では
考えられない俊敏な動きで浴槽から飛び出ます。


・・ここまでが、熱湯風呂における上島さんの
一連のリアクション
です。

上記の中で、あなたが「一番面白く感じる部分」
どこでしょうか?

お笑いの感性は人それぞれですので
優劣のお話ではないことを先に断っておきますが

恐らく一番最後の
「上島さんが熱湯風呂に落ちた後のリアクション」
笑う方が、大半なのではないでしょうか。

浴槽が透明なのも、熱湯風呂に入る流れも
周囲が手伝おうとするのも「押すなよ!」

牽制するのも

最後の「上島さんのリアクション」を
視聴者に伝わりやすくする目的

集約されています。

いわば①~⑤は「オチの効果を最大化するために
必要なお膳立て」
ですね。

ここで例えば、上島さんのリアクションが
薄かったらどうでしょうか?

お膳立ての部分が一緒でも、笑いの量に関して
かなりの差が生まれる
のではないでしょうか。

リアクションの根底は「共感」です。

相手が受けた「外界からの刺激」に対して
想定した反応よりも低かったり
全然違ったり(泣いて欲しいのに笑ったり)すると
受けた側は、不安を覚えます。

熱湯風呂に入っても、平然としていたり
あまり嫌そうじゃなかったりした場合

視聴者が抱く想いとしては
「・・本当は熱くないんじゃない?」
「な~んかやる気ないなぁ」
「ちゃんと仕事してんの?」
みたいな

「想定していた反応ではない事」に対して
落胆や、怒りのような感情を抱く方も
いらっしゃいます。

つまり、リアクションが「薄い」と
印象がネガティブになりこそすれ

よりポジティブな印象に変わることって
少ない
のではないでしょうか。

プロの芸人さんでいうと
キングコングのお二人は
「対人のリアクション」も、とても上手です。

ぼくは梶原さんが、カジサックとして
youtuberで活動され始めてからやっと
キングコングの魅力に気付いたクチですが

梶原さんも西野さんも
相手に対しての「聞く姿勢」がとても素敵です。

その上で、ゲストに対しての「話の引き出し方」
少し違っていて、梶原さん(カジサックさん)は

常に相手の事を考えながら、徹底的に聞き役に回りつつ
会話の隙を探りながら、空気を作っていく
ような印象です。

対して西野さんは、ゲストや視聴者に
いま、ご自分がどう映っているかを常に考えながら

「双方が得をするような」気持ち良いくらい
振り切ったリアクションをされる
ことで、結果的に
ゲストや視聴者を楽しませています。

梶原さんは「相手を主体にした
相手のためのリアクション」


西野さんは「自分を主体にした
双方のためのリアクション」

みたいな印象です。

どちらもプロの技術で、とてもぼくが
真似を出来るものではありませんが

この表現の違いは「お二人の自己肯定感の違い」
なのかなと思っています。

あんな表現が出来るお二人が身近にいらっしゃる
周りの方々は、幸せだろうなあと思います。

【リアクションの大切さ】

相手の行動に対して、反応を意識して
返し続ける事は、人間関係に重大な影響を及ぼします。

日本で生まれ育った方は、国民性からか
和を重んじ、場を乱す事を良しとしない方が多く
その分、自分を表現することに苦手意識を
持たれるようです。

リアクションを取ることは
相手への「距離感」を示すためにも
大事な事です。

ぼくの数少ないお友達にも
「本心が相手に伝わらない」
という方がいらっしゃいます。

その方は、物事に対しての洞察が深く
ご自分の考えを言語化するのが上手で
お話すると、とても楽しい時間を
提供してくれます。

人と話す時に感情が乗らず
表情の変化も比較的薄いので

「何を考えているかが
喋らないと伝わりづらい」
のですが
「感情や表情といったリアクション」
含めた表現に乏しい方は

相手に「距離感を間違えた対応」
取られやすくなります。

例えば、なにか指摘をされた時
ぼくのお友達は、誰に何を言われても
表層的な変化が薄いため

「結構きつい事言われたのに、平気なのかな?」
「動揺してなさそう・・メンタル強いなぁ」


みたいな印象を、自分も受けていました。

ですが後でお話した時に
「あの時に言われた言葉で、すごく傷ついた」
「家で毎日泣いてた」

みたいにお話してくれて

「そうだったんですか・・」と
びっくりしたのを覚えています。
※友達にも敬語なのは、ぼくの癖です

傷ついた経験を話してくれているときも
感情が乗らずに表情の変化も薄いので

これがスタンダードなんだから
こういう時、とても辛いだろうなぁと
思いました。

自分の心の動きを上手くリアクションして
表現出来る方は、きっと様々な面で
プラスに働きます。

人の心理の特徴として
返報性の法則というものがあります。

相手にされた事と同等量の感謝や恩を
自分も返したくなる心理
の事ですが

表現が感情や表情に上手く表せない人は
相手が「この人にはここまで言っても大丈夫だろう」
という見極めを、間違えてしまう確率が高まるのでは
ないでしょうか。

また、相手に感謝していても
それが上手に伝わらないために

「本当に感謝してくれてるのかな?」
「自分のことなんて何とも思ってなさそう・・」


みたいにマイナスに思われやすく
コミュニケーションに
齟齬が生まれてしまいます。

「他人の考えていることを
完全に把握すること
は、絶対に出来ません。

人が想いを伝える手段は、言語と
非言語(身振り、手ぶり、アイコンタクトなど)
になりますが、どちらを使ったとしても

「相手に自分の伝えたいことを100%伝える」
ことは出来ません。

意味を取り違えたり、間違った理解や解釈を
与えたり、受けたりする事を
「誤解」といいますよね。

この「誤解」を与えたり、受けたりする可能性を
少しでも減らせる技術が「リアクション」である

ぼくは思います。

言葉を尽くしても、分かり合えない人もいます。
それは仕方がない事です。

ただ、本来は仲良くなれたはずの人同士が
誤解によって離れてしまう状況は
とても悲しいことです。

あなたに「リアクション」の大切さが
少しでも伝わったら、嬉しいなと思います。

【まとめ】

今回は「リアクションの大切さ」について
書かせて頂きました。

リアクションとは「相手が発信した事に
対して反応を返す」
ことで、言葉以外の
表情や態度なども含まれます。

リアクションが上手な方は、相手に
「自分はあなたの事を、こう思っている」
という想いが伝わりやすいため

お互いに「距離感」を掴みやすくなり
感覚が合うなと思う人同士は
そのまま仲良くなれたりします。

リアクションを意識することは
人の中で気持ち良く生きていく
ためのものなので

まずは、ご自分が
「この人楽しそうに笑うなあ」とか
思う人の行動を、ちょっと意識して
見てみると、参考になるかも知れませんね。

あなたが日々、少しでも楽しく
過ごせるように願っています。


ことばでした。
読んで下さってありがとうございました。

はげますことは
こんにちは、ことばです( *´艸`)

今回のテーマは「周りの目を気にしすぎてしまい
自分を出せなくて、悩んでいる人に
掛けて差し上げられる言葉を探してみる」
という
内容です。

テーマをそのままタイトルにすると
長すぎるので、悩み相談みたいにつけました。
SEOとか、全然考えれていません。

あなたは、あなたのままでいいんです。
ありのままに生きましょう。

(この文言でブログを締めると思います)

偉そうですみません。
よろしくお願いいたします( *´艸`)


【人の事が気になる】

他人と比較して、自分の不出来に落ち込んだり
集団の中で、人の目や態度を気にして
本来の自分の力を出せない・・。


あなたには、こんな経験はありませんか?

ことばは、自己評価が低い故に
自分に自信がありません。

現在も、常に人の目が気になりますし
一人で外出しても、お店で店員さんに
話しかけられたりするのが
ものすごく苦手です💦

飲食店で、自分で声を出して店員さんを
呼ぶのも苦手です。
呼び出しボタンがあるお店は助かります。

自分に「発揮して、人に重宝がられる能力」が
そもそもあるのかという根本的な疑問もありますが
それは、今回は置いておいて・・

どういう考えかたをすれば
「あまり人の事を気にせずに、自分を出せるのか」
気になりませんか?

ぼくは気になっています、ずっと。

叶うなら「存在するという苦しみ」からの
解放の解法を、どなたかに示して頂きたいのですが

きっと誰にも出来ないのを理解した上で
自分でも、考えてみますね。

【「ありのまま」とは】

「アナと雪の女王」の劇中歌「Let It Go」の歌詞の和訳
「ありのままの~」というフレーズ、流行りましたね。

素敵な言葉です。
どんなときも「ありのまま」の自分で生きていくことが
出来たのなら、どれ程充実した人生になるのでしょうか。

ありのままの意味ですが
「実際の、嘘偽りのない姿」だそうです。

つまり「ありのままの自分」とは
「自分で自分に、嘘をついていない状態」
という事なのでしょうか。

自分で自分に「嘘を吐く必要がある状況」って
他人に「認められたい」「好かれたい」
「嫌われたくない」という想いがある時で

「相手に自分を、より良く見せようとする意識」
働いているときかなと考えます。

こういう方は、生真面目で思い込みが強いという
心理傾向があります。

それと、SMAPさんの曲
「世界に一つだけの花」の歌詞も素敵です。

「ナンバーワンにならなくてもいい
もともと特別なオンリーワン」


こちらにも、ぼくは救われました。
競争が苦手なので、自分を肯定してもらった
みたいな感覚を持ちました。

言葉は共感を集めようという側面で
大衆に向けて放たれた時、とても優しく
耳障りのよい温度感を持ちます。

「ありのまま」も「オンリーワン」も
社会の性質、そのままを表現していれば
良かったのになと、強く思います。

人が、自己を表現しながら活動をすると
必然的に「勝ち負け」「優劣」が生まれます。

もうこの時点で
「誰も傷つけずに生きていく事」は出来ません。
その事実は、本当に悲しい事だと思います。

例えば、ぼくはブログの活動報告として
PVとUUを報告しています。

最近では、一日のUUが10を超える日も
ちらほら出てきました。
収益化を目指していますが、いまだ0円です。

人の報告って、読まれる方の状況によって
抱く印象が変わりますよね。


例えば、ぼくの報告を読まれた方で
その方の状況次第では

「私は、まだPVが一桁なのに・・」とか
「こんな無意味なブログ、何が楽しいん?」とか
「知らん。興味ないわ」とか
「こんなブログでも1日10人アクセスあるのに
俺のブログは・・」とか。

受け取り方は、人それぞれですよね。

ぼくも、最近は検索するのを控えていますが
SNSの書き込みで

「まだPVが1日に100程度・・。はあ・・。」とか
「今日の作業。ブログを2記事更新と
過去の記事のリライト。
収益は〇万円。さあ積み上げるぞ」


みたいな「感想や報告のツイート」が目に入るたびに

「1日にPV100で凹むとか・・ぼくなんか・・」とか
「がんばってるなぁ。
それに比べてぼくはなんもしてない」


みたいに、勝手に比較して勝手に心がざわついて
落ち込んでいました。

PVやUUなどは、数字でハッキリと示されるので
どうしても他の方のそれと
比較してしまいやすいですが

ブログのようなことでなくても

・同期との立場や収入の差
・家庭環境や境遇、学歴
・配偶者の有無、性別、容姿
・身長、年齢、体重・・

人はありとあらゆる要素で
とにかく「比較」します。


価値感は人によって違いますが
「基準が違う」だけで
「何かを比較する」のは皆、同じなんです。

【ABC理論】

心理学では、非合理的な心理傾向
「〇〇でなければならない」という考え方や
「根拠もなく悲観的な考えをしてしまう」ことを

イラショナルビリーフ(irrational belief)
いいます。

非合理的な心理傾向には
4つのパターンがあるとされていまして

①しなければならないという思い込み
②悲観的な思い込み
③卑下をしてしまう思い込み
④我慢が出来ない、耐性が低いという思い込み


自分や他人を傷つけたり
外界からの刺激に過剰に傷ついたりしてしまう原因を
上記の4つのパターンに分類しているという事です。

こちらは、アメリカの臨床心理学者の
アルバート・エリスさんという方が提唱した
ABC(DE)理論の中の言葉です。

ABC理論とは
「人の見えている世界は、起こる出来事ではなく
その人の認知で変わる」
という
メンタルヘルスなどでも使用される、論理療法です。

Activation event=出来事
Belief=信念
Consequence=結果


例えば、ぼくとあなたに同じ「出来事」が起こった時
二人の「認知が異なる場合」では
「受け取る結果」がそれぞれ違うというものです。

ぼくの場合「非合理的な信念」で
「出来事を認知」するせいで「傷つく」わけなので

この「出来事(A)」と「結果(C)」の間の
フィルターである「非合理な信念(B)」の部分を
適切なものに変えてしまいましょう
というのが

ABC理論であり
メンタルヘルスにおける「論理療法」です。


1955年に、この理論は提唱されています。
ぼくは、たったいま知りました。

・・なんという無知な自分・・

はっ!また認知が歪んでいる!

ですから、こういう「何も知らない無知な自分」
という捉え方ではなくて
「新しいことを知れて、また一つ賢くなった
」と
前向きに受け入れようねという事ですね。

現在進行形で、思い知りました笑

ただ、こういう心理学の言葉や理論を
知識として知っても、それを
自分に置き換えて実践することって
なかなか出来ませんよね・・。

突き詰めると「要は気の持ちよう」という
とっても当たり前で真っ当な結論に
なってしまいますし💦

ぼくのような、新しい事を覚えるのも
なかなか難しい人間に刺さる言葉って
なにかないのかなと、考えてみます。

【素の自分】

あなたは、人の目を見れますか?

自分は「仕事以外で外出した」状況ですと
全く見ることが出来ません。

いまは仕事は、介護職をしていまして
業種は大まかに括ると、接客業です。

「接客業は自分には出来ない」と
学生の頃は思っていました。

ですので、絵を描いて生活出来たらいいなぁと
思っていたのですが、そもそも「投稿する
勇気も自信もない」
という有様でした。

今は、描いたイラストや書いた文章を
発信するための障壁が、とても低くなったので
良い時代になったなぁとつくづく思います。

ただ、ABC理論よろしく、プラスに考えれば
今の時代にぼくが学生だったら、絶対に
仕事で接客業を選択することはなかったでしょうし

これまでの選択を後悔をしている
というわけではありません。

特別なことでもありませんが
職場では「仕事の人格」を作っています。

「人格を作る」というのは
「意図して、ありのままではない自分で接する」

みたいな事で

上の項目で書いた
「他人に自分をより良くみせよう」という
意識からではなく
「仕事を円滑に進めるためのもの」です。
※結果としては同じかも知れませんが・・

なんでしょう、ゲームで例えると
「別のキャラクターを作って、そっちで
経験値を積む」
みたいな感じです。

介護施設なので、利用者様と話す時や
職員さんに指示をさせてもらう時などは
仕事の人格で接しています。

そちらですと、人と話す事も割と出来ますし
ちゃんと目をみて、対応も出来ます。
口下手なのは、変わりませんけど。

とはいえ、最初は全然「人格をつくる」ことなど
意識していませんでした。

意識するようになったのは
役職を頂いた、ここ数年の事です。

前の職場では、人と話す時や職員さんと接する時
ぼくの顔が緊張と高揚から常に紅潮していたので

職場の人に「顔がいつも赤いけど、
なにかの病気なの?」

心配されたことがあります。

「人と話すという行為」をしている事が
自分の中で消化出来ないため
いつも不安で押しつぶされそうだったんです。

こんな態度で受け入れられるかなとか
気持ち悪いと思われていないかなとか
声を聞き取ってもらえてるかなとか
ぼくの意図がちゃんと伝わるかなとか

そんなことばかりを考えていたため
業務になかなか集中出来なくて
苦心しました💦

ただ、介護職で利用者様と接したり
介助をさせてもらう時は、余計な事を考えず
業務に集中出来ている自分がいました。

「この差ってなんだろう・・
高齢の方と、そうでない方の違い?」

「認知症の方と、そうでない方の違い?」

「もしそうだとしたら、自分ってなかなかに
最低な区別をしている人間だな」
みたいに考えたり。

・・心の動きの説明は難しい💦

いまは「顔の紅潮」は、随分マシになりました。
その理由は、介護職で現場経験を積ませてもらって
フロアリーダー、管理者などを
させてもらえるようになって

「指示される立場」から
「指示をする立場」に役割が変化したからです。


ぼくの性質的に、人のマネジメントは
そこまで苦ではなかったようで

人にお願いする時は、どう頼めば
お互いに気持ち良く動けるのかなとか

どういう言い方をすれば、人を嫌な気持ちにさせず
自分の考えを伝えられるかなとか

「考えても解決しない、内面の悩み」から
「考えると解決出来る、対応の悩み」に
脳のリソースを、徐々に割けるようになりました。


それと「副業をしよう」
思い立ったのも大きいです。
こちらのブログなんですけどね。

更新しても、ぜんぜんPVが伸びず
改めて、自分の能力の無さに打ちのめされて

それでも、もぞもぞともがく中
「時間に対してお金が頂ける」という
サラリーの有難さ
が、心の支えになりました。

ビジネス的な思考も、心理学と似ているものが多く
合理的で納得のいくものが多いので

メンタルが弱くて、これという考えの持てない
自分には、刺さる内容が多かった
です。

「素の自分が、どうして他人に
受け入れられると思うのか」


この考え方は、ぼくの尊敬する
ゆうしゃさんというゲーム実況者が
なにかの配信で仰っていた時に

特に印象に残っている言葉の一つです。

ぼくの、とりあえずの結論として
「社会で、ありのままに生きるためには
ありのままではダメだと思い知る」

ことが、大事なのかなと思っています。

【まとめ】

今回は
「周りの目を気にしすぎてしまって
自分を出せないと悩んでいる人に
かけて差し上げられる言葉はあるか」
という
内容で、書かせて頂きました。

人は意外と「外的要因の悩み」を抱えている方が
それを解決しようという意欲を発揮して
がんばれる事が多いのですが

その悩みが解決して「悩む事柄がなくなる」と
次は「内的な悩み」に意識が向けられます。


内的な悩みとは
「自分の容姿」とか「性格」の悩みです。

本来「些細なこと」であるはずの悩みも
「他に悩みがない」と、どんどん
自分の中で大きくなって

それに自分が耐えきれなくて、悲しい選択を
してしまう事もあります。


人は、常になんらかの悩みを抱えてしまう
生き物なのでしょうね。

「すべての解決を望む思考」よりも
「不安の中で生きていく術」を
身に着けていければいいなと思います。

・・こんなことをいくら書いても
きっとぼくは、仕事以外では
人の目を見れないでしょうし

自信のなさも、卑下する癖も
一朝一夕で培ったものではないので
なかなか治らないでしょう。

ですが「マシになった」と自分では思います。
以前と比較して、この世界で少しだけ
「生きていきやすくなった」と思えます。

それは、色々な価値観に触れて
経験させてもらった結果です。

あなたも、もし今が苦しくても
どうしようもないと思っていても

「それでいいや」と受け入れて
ゆるゆる生きたらいいと思います。


「何かを生み出さないと
生きている意味がないなんて
そんな馬鹿なことがあるもんか」

※ハチミツとクローバーより※

意味とか、理由とか
効率とか、生産的とか


考えると疲れてしまう時期もありますね。

そんなときは「ありのまま」
現状の自分の受け入れ
自分で自分を、肯定して差し上げて下さいね。


あなたは、あなたのままでいいんです。
ありのままに生きましょう。


・・こんな長文ですみません。
まとまってないですし💦

ことばでした( *´艸`)
読んで下さってありがとうございました。

れってることは
こんにちは、ことばです( *´艸`)

今回のテーマは「レッテルを貼ろうとする意識が
僕らに与える悪影響って?」
みたいな内容です。

他人にはもちろん、自分自身に対しても
知らず知らずのうちに貼ってしまう「レッテル」

偏見を持たず、フラットに生きていくためには
どういう考えかたをするべきか、
書いていきたいと思っています。

よろしくお願い致します。


【レッテルの「意味」】

「レッテル」は、オランダ語「letter」に由来する言葉で
「文字」「手紙」「値札」「ラベル」という意味を指します。

商品、品物に貼って値段を表示する「値札」を指しても
意味としては、伝わりますね。

この「レッテル」を人物に貼ると
「物事についての主観的な評価を示す言葉」
意味が変わります。

商品に貼るレッテル(値札)は
例えば「これは1980円です」とお客さんに
その商品の価値を提示する役割のものですが

人物に貼る「レッテル」には
どういった役割や効果があるのでしょうか。

少し、自分の話をさせて下さいね。

【レッテルを「貼られる」】

ぼくは一時期、高校の先輩とルームシェアをしていました。
この先輩が、いわゆる「不良」と、他の学生や先生方に
言われるような人でした。

自分は中学の頃に登校拒否になり、
高校は行きたくなかった挙句に定時制を選択した
(というより、親に道を示してもらった)のですが

とある切っ掛けで、その先輩と
交流を持つようになりました。

高校の頃は、学年も違うのでそこまで一緒に
いたわけではなかったのですが
たまに先輩と一緒にいると
後日先生に自分だけ呼び出され

「ことば、〇〇に脅されているのか?」
「〇〇に何か言われたのか?」

みたいに、すごく心配されました。

自分は典型の「いじめっこの的になりそうな
弱々しい生徒」
だったので
構図としては「不良に絡まれる生徒」のように
映ったと思うのですが

自分的には先生の仰る先輩と、
自分が印象として受けた先輩のイメージが
重ならないため、とても変な感じでした。

先輩の内面を知るようになるのは、ずっと後に
なってからですが、当時の自分の印象としては

「この人、そこまで悪い人なのかな?」
「不良って言われてるけど、そうでもないような・・」


というもので、確かに見た目は金髪でしたし
いつも誰かを威圧するような感じでした。
態度や口調は、先生方には乱暴だったように思います。

そういった印象を総合すると「不良」と呼ばれても
仕方ないという感じでしたが「悪い人」という感覚は
自分の中にはありませんでした。


そんな先輩に、キレられた事があります。

ぼくは自己評価の低い人間で、
とにかく自信がなかったため

謙遜と保険の意味合いで「自分なんか」とか
「どうせ自分なんて」みたいなワードを
会話の中で多用していました。

ある日先輩に「お前、俺をバカにしてんのか?」
言われました。

前後の流れを考えても、自分が先輩を
不快にさせた理由が全く分からず
「え?え?」とおろおろしていると、先輩が

「お前はよく自分を卑下するけど、それはお前を
大事に思っている奴を、一緒に下げているのと同じだ。
お前にとって、俺はその程度の存在だと言っているのと
同じだ。お前にとって、俺はその程度なのか?」

みたいな事を言われました。

当時は正直、意味がよく理解できず
「え・・ご、ごめんなさい」みたいに
謝ることしかできませんでしたし

「自分なんかって言葉は、先輩の機嫌を損ねるから
言わない方がいいのか・・」

くらいにしか、思いませんでした。

いま考えても、本当にありがたい言葉をかけて
頂いていたなぁ
と思いますし、当時から
こういう考え方ができた先輩って、きっと

色々な経験をされたが故に傷ついていたのだと思いますし
「不良」のレッテルを貼られたが故に失った、
様々な形のないものに対して
苦悩していたのかな、と思います。

もちろんレッテルが先に貼られたわけではなく
先輩の行動や言動によって「不良」と呼ばれるように
なったわけですから、自業自得な面の方が
大きい
とは思います。

ですが、自分にはあんな考え方
到底思い至りません
し、今でも出来ません。
「不良」とレッテルを貼られた先輩は

その内面を、その繊細な感覚を
「レッテル」によって、多くの人に伝える機会を
失ってしまった
といえるのではないでしょうか。

【レッテルを「剥がす」】

レッテルという言葉を人に対して使う時
そこには「偏見」という価値観が含まれている
場合が多いです。

「偏見」の意味ですが
「根拠のない、感情や主観により形成された思考」
一面的な物の見方や表現に対しても使用されます。

例えば、ぼくは学生の頃に自分の事を
「いじめっこの的になりそうな弱い人間」だと
思っていました。

「弱い」という意味の定義も特に定めず
見た目や内面から「弱い」と勝手に思い込み

結果、どんどん引っ込み思案になり
話せなくなり・・と良くない循環の偏見に
囚われていました。

これは、誰のせいでもない
自分で自分に「レッテル」を貼った結果です。

自分には「自分が強いと定義できる根拠」もなければ、
また同様に「弱いと定義できる根拠」もありませんでした。

子供の頃に自分で貼った「自信喪失レッテル」が
未だに剥がせずに、今に至ります。
「偏った見方」をすることは、相手にも自分にも
良い結果を与えません。


人に貼るレッテルの正体は
「主観による思い込み」です。
レッテルにより、人は苦しみ、悩むのですが

自分で貼ったレッテルや、他人から貼られたレッテルを
「剥がす」ことって、出来るのでしょうか?

結論から書きますと
レッテルを剥がす事は、ほとんど無理に近いです。

ですが「上書き」することは出来ます。

【レッテルを「上書き」する】

例えば、自分で自分に貼ったマイナスなレッテルを
剥がそうと考えた場合。

時間が経てば経つほど「レッテル」と
「自分の認識」が同化していきますので
剥がすことが困難になっていきます。


ですので「上書きする」方法が
一番理想的かなと考えています。

学生の頃のぼくで言えば
「根暗で頭も要領も悪く、運動神経も悪い。
そして口下手の自分は、だれからも好かれないだろう」
「女の子ともろくに話せない。モテた経験がない。
友達もいない。こんな人間のどこに価値があるのだろう」

みたいな事を、多感な時期に考えていました。

ぼくは、この「思い込み」は、
事実認識を積み重ねた結果の上での、確たる根拠だと
当時は思っていましたが、実際はそうではなく

ただ何もしなかった、行動していなかっただけの
「積み重ねの中の主観」なだけだったなと
改めて思っています。

「頭が悪い」のは「勉強をろくにしていないから」

「要領が悪い」のは「経験を積んでいないから」

「人と話せない」のは「考えて喋っていなかったから」

「モテない」のは「自分の事ばかり考えていたから」


なんというか「自分のことなのに、他人のせい」
のような意識で、それにも気づかずに


ただレッテルの中に自分の可能性を押し込めて
傷つかないように、傷ついてもダメージを
最小限に出来るように、落差を感じないように
守っていた
ような感覚です。

自分の場合は、マイナスのレッテルを
貼り続けてしまったせいで、
もうこれを完全に剥がす事が出来なくなりました。

それでも、上書きを重ねた結果
元々のレッテルの文字は、薄くなりました。

自分で自分にレッテルを貼ることほど
悲しくて、後悔することはありません。

だから、剥がすというよりも
「レッテルの上書き」をする事をお勧めします。

まず、もしご自分を卑下してしまうのであれば
「自分のどこが、どういう風に嫌か」を
言葉に出来るくらいには、消化してみて下さい。

抽象的な話で申し訳ないのですが
自分の「嫌」な部分を抽出して
どうやったら「嫌」と折り合いがつくのか
考えるような感じです。

例えば
「なにをやっても続かないのが嫌」であれば
「意志が弱い」とか「継続できない」自分を自分で
よく思っていないという事です。

自分に「継続出来ない」レッテルを貼っている
この状態を改善するには

「継続できることを発見する」か
「そこは切り捨てて、新たな長所を発見する」か

だと思います。

そもそも人の意志は、とても揺らぎやすいので
自分の意志の力だけで物事を継続し続けることは
とても、とても困難です。

意志関係なく「気づいたら勝手に続いていた」ような
状態に持っていくことが重要です。

ぼくでしたら、ソシャゲのグランブルーファンタジーは
数あるソシャゲをしてきた中でも、唯一続いています。

自分の中で「グラブルで遊ぼう」とか
そんな感覚はもうなくて、起床後に必ずPCを起動して
グラブルの日課を消化しながらYouTubeを見るのが
ルーティーンになっています。

また、自宅から職場までの通勤時間は
音声コンテンツを聞き、ブログのネタを考えたりなど
インプットの時間に充てています。

これらは「継続しようという意志の力」は関係なく
「そういう仕組み」というだけです。


個人の意志の強さは、物事を継続できるかどうかに
あまり関係なく「いかに仕組みを作るか」の方が
大事です。

ぼくもこのブログを早く「仕組み」化しなくては・・

こんな風に自分の中で「何かが継続できて」いれば
「継続できないレッテル」は、認識との齟齬が
生まれるため、少しずつ薄まります。

「物事を継続できる」プラスのレッテルを
自分に「上書き」する事が出来れば
マイナスのレッテルを自分に貼る癖、そのものが
なくなっていくと思います。

【まとめ】

今回は「レッテルを貼ろうとする意識が
与える悪影響」
について、書かせて頂きました。

人は、人に抱いた印象を簡単に言葉にします。

その中には、相手の背景を想像せず
身体的な特徴を言葉で簡単に揶揄したり

プロの芸人さんのやり取りを、そのまま
コミュニティに持ち込んで、表面だけをなぞるような
行為で、結果として相手に
マイナスなレッテルを貼ってしまったり

レッテルは、貼るのは簡単ですが
剥がす事はとても難しく、時間のかかる作業です。


マイナスな言葉が、人に与える影響力は
絶大で、相手の意図と自分の姿は常に見えないため
そんなとき、言葉の影響力が際立ちます。

凶器と薬箱を常に持ち歩いている状態です。

自分の言葉を相手にも
そして自分自身に対しても凶器とせず
どうすれば、お薬として使用できるのか


少しでも、あなたが考えて下されば
嬉しく思います( *´艸`)

レッテルが抱える問題は
とてもとても、根深いものですが
あなたにとって、優しい世界が
訪れるよう、願っています。

・・全然まとまってないな、すみません💦

ことばでした。
読んで下さって、ありがとうございました。

おこりことは
こんにちは、ことばです( *´艸`)

更新がとっても滞ってしまってごめんなさい💦
世の中のエンタメに時間を奪われ続けていました。

エンタメのせいではなく、自分のせいです。

今回のテーマですが
「どういう考え方をすれば、職場で他人に怒らずに
色々と、対応する事が出来るか」
です。

お仕事をされている皆様におかれましては
日々、職場でのストレスと向き合い、それでも果敢に
対処をされ続けておられるのではないかなと思います。

本当に、素晴らしいです(*´v`)

でも、例えば自分が上司で
指示をした動きを職員さんがしてくれない時や
頼んでいた仕事の進捗の報告が特にない時

「どうなっているんだ?」
みたいに、なんだかイライラしてきますよね。

そんな時、そのまま感情的に相手に気持ちを
ぶつけてしまうと、今の世の中
「あの上司にパワハラされた・・」

自分に全くそんなつもりがなくても
SNSに書かれたり、自分よりさらに上の役職に訴えられたり
とにかく大きな問題になる事が多いです。

もういちど書きますが
「自分に全くそんなつもりがなくても」です。

職場で感情的になる事はリスクでしかない
昨今ですが、自分の性格、考え方はそうそう
変えられません。

それが分かっていたとしても
このリスク管理は早めにしておいた方が
絶対に良いです( ;∀;)

多分この風潮は長く続きますし
今後もますます増大すると思います。

自分は介護施設で働いていますが
利用者様と接する時「態度や声掛け」
気を配っています。

それと同等、いえそれ以上に
「職員さんと接する時の、自分自身の態度や声掛け」
にも、気を配るべきだなと思っています。

詳細は書けませんが
自分も、最近大きな失敗をしたばかりです💦

この失敗談は、またどこかのタイミングで
ブログで書かせて頂く予定です。

それでは、ことばが考える仕事での怒りの対策や
考え方を、文章にさせて頂きますね。


【怒りの原因と対策】

仕事で人が怒りを感じる原因は
大まかに二つあります。

①(自分は)聞いていなかった

②相手の仕事の考え方、価値観が理解出来ない


それぞれ、細かく掘り下げていきますね。

①自分は聞いていなかったについてですが
例えば、自分の知らないところで勝手に物事が決まったり
変更されたりすることについて

「自分は聞いてない!」
「勝手に変更して、どういうつもりだ!」

感情的になってしまう方がおられます。

役職を持たれている方や、職場で年数が経過する程
自分は知らされていない事に関して
プライドが刺激されるため、怒りに転化してしまいやすい
ように思います。

それは責任感の表れであり、当然の事なのですが
感情的にならないようにする考え方って、あるのでしょうか?

個人的には
「なぜ自分を抜いて勝手に進めたんだ!」と
他人を主体に考えるよりも

「なぜ自分には物事が知らされなかったのか」と
自分を主体にして考えた方が
怒りには結び付きづらいのかなと思います。


自分に物事が知らされなかった理由として

「自分は普段どういう態度で人と接しているのか」

「その物事に、自分はどの程度影響していたのか」

「発信者と、適切に信頼関係が築けていたのか」を


自分で客観的に評価して、それでも
自分が知らないのは業務上適切ではなかったと
考えて、初めて指摘をするべきかなと思います。

会社は、組織で共通の目的を達成するための集団ですので
個人がすべての流れを把握する事は不可能です。

「自分が知らなくても、滞りなく物事が進み
終わるのであればそれで良い」
と考える事が出来たのなら
無用に感情を動かさなくて、よくなりますよね。

また自分が「相談しづらい人」になっていないかは
意識しておいた方がいいかなと
思います。

部下は、上司の行動をよく見ています。

表情、姿勢、仕草、言葉の数、選択、抑揚などが
複雑に絡んで、相手の印象として
「話かけやすい、話しかけにくい」雰囲気を形作ります。

「仕事なんだから、そんなの関係なく報告してよ」
思われますよね?

難しい事に、それが通用しなくなってきているのが
今の時代の流れなのかも知れません💦

「自分は聞いていないぞ!」と憤る前に
「自分が相手にどういった情報を与えているか」は
振りかえってみても、損はしないかなと考えています。



②の相手の考え方が理解出来ないについてですが
人は「自分が理解出来ないもの」に出会うと
「怒り」を感じてしまいやすいです。

これは、状態としては
「理解出来ない=その物事に対しての知識不足」
という事だと考えています。

例えば指導の時、何回言っても同じミスをする新人さんに
「何回言えば分かるんだ!」と感情的になってしまう場合。

どちらに非があるかという問題はさておき
「なぜ怒りを感じたか」の理由として
「なんで同じミスをするのか、理解出来ない」という
感じ方をされるかと思います。

ですが「何回も指摘している」事実は
自分にも当てはまる事です。

指摘する時に
「前も同じことを言ったよね?」とか
「これ〇回目なんだけど」みたいな言葉を
使った経験は、ありませんか?僕はあります。

こういう言葉は往々にして、相手を焦らせて
プレッシャーを与えます。

仕事でプレッシャーを与えられると思考能力が
極端に低下して、何も考えられなくなる方もおられます。

指導する側は「何度も機会があった」のであれば
その新人さんの「情報」も得ているはずです。

その情報が「知識」です。

新人さんの性格や考え方は、指導の中で知識として
何も知らなかった時よりも高まります。

それを「どうやって指導するべきか」の「対策」に
変えて、活かすようにすれば良いのかなと思います。


例えば「このミスは、仕事の優先順位が分からない
せいで発生したのかも。まずは優先順位を徹底して
覚えてもらうべきかな」
とか

「時間にルーズな面があるから、仕事における
時間の重要さをまずは教えるべきかな」
のように

新人さんの事が何もわからなかった時よりも
情報として得た新人さんの性格や性質を知識として得た
段階の方が、相手への「理解出来ない」が薄まっているため

怒りを感じる要素も薄まるのかなと考えます。

指導で重要なのは「回数」ではなく「質」です。

相手が仕事が出来る、出来ないよりも
自分が相手に対して効果的な指導が出来ているかを
基準にしていけたら良いですね。


【いま、気を付けるべきこと】

自分から他人に向けての行動や言動には
とても鈍感なのが、人間という生き物です。


「そんなつもりはなかった」という言葉を
加害の立場になってしまった方は、使う印象があります。

あれは本当にそう思っていたのだと感じます。

自分の「そんなつもりはない」は自分では許すのに
相手の「そんなつもりはない」は許さないのも
「自分が他人に与える影響に鈍感」だからです。


介護施設でたびたび報道される
施設利用者様への虐待も、同じ理由です。

時に苛烈な、相手の周辺症状に対して
鈍感な自分が、相手への影響を考えずに対応すれば
「虐待」と判断されてしまうケースは高まります。

昨今、議論が絶えない「〇〇ハラスメント」の問題も
「そんなつもりがない」自分が起こした言動、行動を
相手が許さなかったからこそ、表面化しています。

相手ではなく、自分の言動、行動にこそ
細心の注意を向けないと、とにかくリスクだけが
高まるのが、今の時代です。

そのリスクへの対処法というか
考え方ってあるのでしょうか?

ことばが考える4つの「リスクへの対策」
お伝えさせて頂きますね。

【リスクへの対処法】

加害の立場になってしまうリスクは
社会に関わる皆様は、誰しもが抱えるものです。

そのリスクを少しでも減らすための「考え方」を
まとめました。以下の4つです。

①知識をつける
②他人の課題にまで踏み込まない
③「正論」と「自分が正論を言う正しさ」は別
④自分の影響力を正しく把握する


それぞれ、細かく掘り下げていきますね。

①知識をつける
先述させて頂いたように「人への怒り」の理由の大半は
「自分の知識不足で、その物事の解決法が分からない」
というものです。

例えば、自分が新しい仕事を任された時に
特に引継ぎをされずに前任者が退職されたとします。

「あの人、何も教えてくれなかった!」
その前任者に対して怒りを覚えますよね。

ですが、予め仕事の段取りや、何をすればよいのかを
把握した状態であれば、その怒りは和らぐと思います。

「あの人、何も教えてくれなかったけど
大体分かるからいいか」

くらいの温度感に、落ち着くのではないでしょうか。

前任者の行動は変わらないのに
自分の感情は変化していますね。

この理由は「自分に対応出来る知識があるかどうか」です。

翻して考えれば「知識をつければ、他人に怒りを抱く可能性を
減らす事ができる」ということです。


②の他人の課題にまで踏み込まないですが

それでも、責任感の強い方であれば
「前任者がちゃんと引継ぎをしないのは、仕事として
間違っているのではないか」

「引継ぎをしてくれていれば、もっと理解が出来たのに!」

みたいな理由で、怒りを感じてしまう方も
少なくないと思います。

心情はとても理解出来るつもりですが
考え方として、この怒りは
「あなたが感じる必要のないもの」です。

細かく書きますと、この前任者は
この時だけではなく、常にこういう仕事を
されていると、推測が出来ます。

相手に必要な情報を与えないとか
説明を面倒くさがるとか
伝達の意識がそもそも薄いとか・・。

責任感の強い方は、こういう仕事の価値観の人と
ウマが合わない事が多いと思います。

ですがこれは「前任者の課題」であり
「あなたの課題」ではありません。


今後、前任者も他の職場で同様の仕事の仕方をされると
思いますが、こういう仕事を続けて、一番リスクがあるのは
結局この方、ご自身です。

あなたが感情的に、前任者に指摘をして
「パワハラだ!」なんて言われた日には
何がしたかったのか、分からなくなりますよね💦

自分の課題と他人の課題は
切り分けて考えたいものですね。


③「正論」と「自分が正論を言う事の正しさ」は別物
これは、過去にこのブログでも書かせて頂きましたが

「正論」には、罠が潜んでいます。
それは「正論なんだから絶対にこちらの言い分が正しい」と
錯覚してしまいやすいということです。


自分が正しいという想いが強ければ強いほど
感情が乗りやすいですし、理解してくれない相手に対して
強い口調になってしまいやすいです。

ですがたとえ正論だったとしても、相手に伝わらなければ
意味がありませんし、それこそこちらが感情的だったり
威圧的だったりすれば、相手には

「正論ばかり言う、嫌な人」
みたいに、マイナスな印象しか与える事が出来ません。

正論を言う時には
「いま、この場でこの正論を職員さんに伝える事は
行動として正しいのか」を考えて

伝える時の自分の言い方、口調、声量、態度などにも
気を回して欲しいなと思います。


④自分の影響力を、自分で把握するですが

あなたは会社の中で、どういった役割の方でしょうか?
基本的には役職が上がり、年数が経過するほど
その職場の中で、影響力は高まっていきます。

もちろん、どれほど役職があがろうが
勤続年数が経過しようが、人間的な価値は変わりません。

役職者は責任の重さと、会社に勤続された年数の信頼が
待遇に反映されているのですが、年功序列の考え方が
今もなお根強い日本では

役職を自分の価値そのものと錯覚した挙句
自分より下の人に対して、高圧的な言動、行動を
相手への敬意を払わずに使う方が、一部いらっしゃいます。

役職者や、立場が上の方が、自身の影響力を
正しく把握せずに使う言動ほど、誤解されやすいものはなく

それこそがリスクの温床だと感じています。

心理学で「自己覚知」という言葉があります。

意味としては「自分と対話し、自分の性質を
正しく把握する」
というものです。

傲慢にならずに卑下をせずに、正しくある事は
とても難しい事ですが、少しずつでも相手に与える
自分の影響は、どのくらいなのかを考える事が
出来れば、悲しい誤解は減らせるではないかなと思います。

【まとめ】


今回は「仕事で怒らないようにする考え方」みたいな
ことを、書かせて頂きました。

まとめますと、仕事で怒る原因は、主に
①自分は聞いていなかった
②相手の価値観が理解出来ない


の2つになるかなと思います。

そして、この現代のハラスメントへの対策として
加害の立場にならないように気を付けるための
考え方として

①知識をつける
②他人の課題に踏みこまない
③正論と、自分が正論を言う正しさは別
④自分の影響力を自分で把握する


以上の4点を意識するべきなのかなと
考えています。

現代は、お金を稼ぐ手段が増えましたね。

必ずしも会社に勤めて、年数をかけて信頼を得る事に
こだわらなくても、自分の能力を磨き、発信する事で
組織に所属せずとも、生きていくための金銭を得る事が
出来る時代です。

ですが、組織に所属するメリットはとても大きいものです。
だからこそ、今のうちに色々な知識や価値観に触れて
対応力を磨いていければいいなと思います。
(自分に言い聞かせています)

人は集団の中でこそ磨かれ、その経験で成長できます。

自分は聞いていなくても、相手の事が理解出来なくても
あなたがそれで感情的になる必要はないと思います。

あなたがそうであるように「人材」は会社にとって
かけがえのない「財産」です。


宝物同士で傷つけあうのではなく
相手をより輝かせるためには、どうしたら良いか
一緒に考えていけたらいいですね( *´艸`)


読んで下さって、ありがとうございました。

あやまりことは
こんにちは、ことばです( *´艸`)

今回のテーマは「そんなつもりじゃなかったって
言わない、言わせないために、考えること」
テーマにしたいと思います。

ぼくも、あなたも一度は使い、使われた経験がある
(と思われる)この言葉。

「悲しい気持ちのすれ違い」を少しでもなくすため
あなたが考えるきっかけの助けになれたら
嬉しいです(*^w^*)

よろしくお願い致します。

【そんなつもりでは・・】

ことばは、本当によく失敗してきました。

コミュニケーションが得意ではないですし
「自分が他人に受け入れられるわけがない」
という、歪んだ自意識を抱えていました。

今は介護職をしていますが、その前は
店舗での販売接客のアルバイトなどを
経験しました。

その中で先輩や同僚に
色々と指摘されていました。

例えば先輩に「ことば君、頼みたい仕事があるから、
手が空いたら声をかけてくれる?」

と、朝イチに言われた時

ぼくはその言葉を、額面どおりに受けとめ
「よし、手が空いたら、声をかけさせてもらおう」
午前中・・午後・・と、雑務をしていました。

そのまま夕方になり、
「結局、声をかけられなかったなあ・・」と思っていた所
先輩に呼び出され
「朝、手が空いたら声をかけてって言わなかった?」
と指摘されました。

ぼくはその時初めて「手が空いたら」という
言葉の意図に気付きました。

それは
「手が空かなかったら、声をかけなくても大丈夫だよ」
という意味ではなく

「ことば君も自分の仕事があるだろうから、
すぐとは言わないけど、なるべく早く声をかけてね」

という意味だったということです。

ぼくの事を気遣って、かけて下さった言葉でしたのに
その意味を考えようともせず、自分本位な解釈
してしまったことに、とても情けなくなりました。

その時先輩が「君は仕事を舐めているよね?」
きつい言葉をあえて仰って下さったのですが

自分はまさに「そんなつもりはないんです」
弁解をするしかありませんでした。

あの時「申し訳ありません。
自分は先輩の仰って下さった手が空いたらという言葉を
そのまま受けとってしまったことと

細々とした雑務が続いてしまい、
上手く時間を取る事が出来なかった自分の力量不足で
このような時間まで、先輩に声をかけさせて頂く機会を
持つことが出来ませんでした。

決して仕事を軽んじているわけではありません。」

みたいに説明でき・・ていても、
きっと呆れられるだけだったでしょうが

介護職を始める前は、こういう齟齬が
とてもたくさん、たくさんありました。

これは、自分の中に
「相手が何を求めているのか」を汲み取る意識が
決定的に欠けていたためだと思います。

あなたは、誰かから、または誰かに
「そんなつもりじゃない」と言われた、言った
経験って、おありですか?

とても悲しい言葉ですよね( ;∀;)

出来ればもう二度と、使いたくないですし
誰かに言わせたりもしたくありません。


言語でのコミュニケーションを主な手段としている以上
齟齬が起きることは、仕方のないことなのかも
知れませんが、その機会を極力減らせるよう
考えてみたいと思います。

【では、どんなつもりだったのか?】

相手に「そんなつもりじゃなかった」
言われた時、あなたはどう返しますか?

「では、どんなつもりだったの?」

・・自分には、妥当な返しが
このくらいしか思い浮かびません(;^ω^)

ただ、この返しは、相手を責めているような
ニュアンスを含んでいる
気もしますので
その場で持ち出す返答としては、
あまり適切でないのかなぁとも思います。

色々な状況が思い浮かびますが、こと仕事の場合
相手が「そんなつもりじゃない」と言う状況って

「自分が伝えた事に対して、相手の対応が
その水準に満たなかった時」


「相手が自分の言葉かけを、誤解していた」

「意図を理解しないまま物事を進めてしまった」

みたいなことかなぁと思います。

自分が指示する立場であれば、
相手を責めてしまいやすい状況になりますが

もしも自分が上司で、複数の部下などから
同じように「そんなつもりじゃなかった」という
返答をされた経験がおありならば

「自分の伝え方にも、相手が誤解して
しまいやすい言い回しが、含まれていたのでは?」

のように考え、次から言い方を変えてみるだとか

説明に割く時間を多めに取などの検討は、
言われた側も、してみる方が良いかも
知れませんね( *´艸`)

【双方を大切にする】

「アサーション」という言葉があります。

これは1950年代に、アメリカの
心理療法の中で生まれた言葉で

(当時の)意味としては「(強い表現での)主張」
というものでした。

当初は、自己主張が苦手な方を対象にした
カウンセリング技法として
実施されていたようですが

時代背景の変遷などによって、言葉の意味
意図がより現代に即したものに
変化していきました。

日本での心理学的な和訳としては
本来の和訳である「主張、断言」から受ける
【積極的な自己表現】というよりは

もっと柔らかくて

「相手を知るための自己表現」
「お互いの気持ちを尊重する」

という意図で、使用されています。

・・文章だと、堅苦しく感じますね💦

う~ん・・現代の流行りを取り入れて
簡単にいうと
ですね

Aさん「私は鬼滅(の刃)が好き!あなたは?」
Bさん「私も!え、推し(キャラ)は?」
Aさん「え、聞いてくれる義勇さんやばない?」
Bさん「はいはい(好意的な肯定)私は圧倒的伊之助」

みたいな会話の流れですね(*´ω`*)
※ことばの脳内会話です。実際のファンの方が
こういう会話をされているかは知り得ません💦

今回は女性同士の会話を想定させて頂きましたが

女性は一般的に「共感能力」が男性よりも
高い方が多く「無意識なアサーション」を
実践されておられる方が、多い印象を受けます。

Aさんが唐突に「漫画の話題」を振った時
Bさんは間、髪を入れずに同意し

「好きなキャラクター」を聞き返すという
「発展の姿勢」を示されています。

そしてAさんが「キャラクターの名前」を言いました。
そのお陰でBさんも「自身の主張」を発言できる
流れが生まれて

「私は(嘴平)伊之助が圧倒的に好き」

だと、Aさんに伝える事が出来たわけです。

Aさんも、恐らく普段からのBさんの行動を
観察しながら「自分と趣味が似ているかも知れない」
という感覚を持たれていたのでしょう。

この会話の流れは
「双方を大切にするやり取り」ですよね。
Aさん、Bさん、お互いが「有意義な時間を
共有出来ている」
と感じているでしょうから。

「自己表現」は「相手」あってのものです。

例えば「私は〇〇が好き」と相手に伝えるとき
相手には選択肢が3つ生まれます。

「そうなんだ~」と「共感」するか
「わかる!私は〇〇っ」と「発展」させるか
「え、ないかなぁ」と「否定」するかです


コミュニケーションに長けておられる方は
この「選択肢」を双方にとって
「気持ちの良いバランス」を
見極めながら、選ぶ力があります。

結果「会話が楽しい」と感じたり
「自分の事を理解してくれているな」などと
思ってくれやすくなったりするわけですね。

「アサーション」・・
「自分と相手の両方を尊重する」
ことを意識すれば

「そんなつもりじゃなかった」という
「悲しいやり取り」は、自然とこの世界から
消えていってくれるかも知れませんね( *´艸`)

【まとめ】

今回は「そんなつもりじゃなかったという
言葉を減らすには?」
というテーマで
書かせて頂きました。

ぼくは、自分の拙い言葉かけのせいで
相手とのやりとりに、齟齬が生まれた時
とても、とても、辛く悲しい気持ちになります。

ユーモアも発想力も乏しく、アドリブも効かないため
「喋って伝える」ということに、いつまでも
苦手意識を抱えていますが

だったらせめて文章で、自分の気持ちを
伝える事が出来たらという
思いがあって
こういったテーマでブログを書かせて頂いています。

ぼくが働いている介護の世界にも
「ユマニチュード」という
認知症の方に効果的なケアの方法論があります。

テレビなどで紹介される時には
「魔法」などと称されるものですが
ただの「技術」です。

このブログを続けていく中で
テーマにさせてもらえるかも知れません。
機会があれば、触れさせて頂きますね。

あなたの周りから
「そんなつもりじゃなかった」が
なくなりますように・・(*´ω`*)


せいべつことは
こんにちは、ことばです( *´艸`)

あなたは「性別って、なんなんだろう」
思ったことってありますか?

ぼくは、たまに思う事があります。

難しいことは分からないので、飽くまで
個人的に思うことなのですが、今回は

「性別」があることにより生まれる
固定観念、あと個人的な悩みを書いて
いきたいと思います。

よろしくお願いいたします( *´艸`)

「性別」とは

「性別」とは、生物的な意味と社会的、
心理的意味とに分かれます。今回は、心理的意味での
「ジェンダー」を主に取り上げさせて頂きます。

ジェンダーの意味は「社会的、心理的な
意味合いから見た男女における性の区別」です。

生物学的には「男性、女性」と分類されていたと
しても、自身がその性に違和感を感じたり、
認識とのズレを感じる心の揺れ動きには、
名前が付けられています

現在は「性同一性障害」と呼ばれています。
身体と心の性別が一致しない感覚ですね。

今年、WHOが性同一性障害を「精神障害」の分類から
除外し、名称も「性別不合」へと変更するそうです。

名称が人に与える影響って大きいですからね💦
「暴走族」⇒「珍走団」しかり・・

「自分の身体の性別に違和感を感じる心」
「病気」と言われるのって、なんだか嫌ですよね。
難しい問題です。

性別が与える「影響」とは

性別は、人をカテゴリ分けする最たるものです。
身体、精神にも性差がありますし、社会的な役割も
男女によって差がありますね。

これはヒトという種族が繁栄を遂げるため
その時代によって、最善と思われる方法で
男女の能力を活用してきた背景があります。

現代は価値観の変遷が目まぐるしいです。

例えば、ひと昔前の「男性は外で働いて、女性は
家で家事をする」
ですとか

「男は度胸、女は愛嬌」みたいな言葉は
古い価値観として、批判されやすいですよね。

度胸も愛嬌も、男性女性、ともに身に着ければ
良いだけですし、性別は関係ないはずなのですが
なんだかしっくりくる感覚もあります(;^ω^)
(ぼくがおっさんだからかも)

現在は「ジェンダーレス」という考え方や
ファッションも受け入れられています。

「男女の性差がない」「男性女性共通」
アイテムや服装、またはそういう価値観
ということですね。

「美少女Vtuberの中身がおじさん」とは
関係・・ないですね(;^ω^)


このように「性別」から派生する問題は、常に
大きな注目を浴び、様々な議論を生み、
社会的にも影響を与えています。

これは「性別を持たない人間が存在しない」ことが
起因しています。

つまり、ぼくらは生まれた時から
「2つのうち、どちらかのコミュニティに必ず
所属しなければならない」
ということで

これにより「性別」の問題は「他人事」では
なくなっています。

「誰に対しても身近に感じる問題」
上手くビジネスに応用できればいいですね( *´v`)
(思いつきません)

性別があって、嫌なこと

すみません
ここから話が個人的なものになります(;^ω^)

あなたは「男女の友情、存在する派」ですか?

ぼくは「存在する派」です。
そもそも友情ってナニ?って話じゃないですか?

えっと、ぼくは結婚していまして、妻がおります。
妻は大変愛情深くて、器量も良いです。

そんな事を抜きにしても。ぼくは妻を
尊敬しているのですが、長い事一緒にいますと、
もちろんケンカもします。

そのケンカの内容の9割「ぼくが他の女性の
ことを好きになっていないか。浮気をしていないか」
ということです。

こんなことを書くと、ぼくがモテているように
感じるかも知れませんが、まったくモテていません。

ただ、やはり妻以外にも、社会では女性と会話する
機会も生まれます。

もともと、ぼくは男性より女性と仲良くなれる
性質みたいなので、お話の合う方は
(合わせてくれる優しい人は)
いらっしゃいました。

もちろん性質は、結婚してからも変わりませんので
たまに女性のお知り合いの方から、
連絡を頂くこともあります。
こんなとき、とっても困るのです💦

「ああ、ぼくが男じゃなかったら、気兼ねなく
遊べるのに」
って!
もしくは「性別がなかったらいいのになあ」と。

同じ性別の仲良くしてくれる人だったら
二人で遊びにいけるのに。部屋に遊びにいって
朝まで、だらだら遊んで、お話できるのに。

なんで性別が違うだけで、それが
許されないんだろう・・と、悲しくなります。


「男は、絶対に下心があるもの」と思われる
でしょう?男性にも、それこそ逞しくてカッコいい
イケメンゴリラのシャバーニさんのような人も
いらっしゃいますが

ぼくみたいに、なよなよしててひょろひょろの
もやしのような人もいるのです。

「性欲」がないわけではありません。
でも「理性」があります。

ぼくが、一時の欲に負けるという事は
一生、妻を悲しませる、苦しませる事に
繋がる事が分かっている以上、
安易な事は出来ませんよね。

「墓場まで隠し通す能力」もありません。
むしろ開示したいんです( ;∀;)


そんなもやしにも、浮気の心配をして下さる方が
いるだけでも嬉しいです、もちろん。
でも、う~ん・・という感覚です。

ほんとに個人的なお話でした(;^ω^)

ま と め

今回は「ジェンダー」についてのお話と
現在の価値観、そして自分の悩みを
書かせて頂きました。

あなたは、性別を意識されますか?

ぼくがもっと「男性らしい」性質ならば
あんまり性別の事を考えたりしなかったかも
知れません。

「LGBT」運動のように、ジェンダーマイノリティ
の方々の声も、世界に受け入れられる世の中に
なってきましたね。

言葉を発することは、常に
「カテゴリ分け」の悩み、苦しみを抱えます。

ですが、個々の悩みを言葉を尽くして
言語化できた時「ひとりじゃなかったんだ」
辛さを共有でき、その方が救われる切っ掛けを
作り出せるかも知れません。

色々な価値観に触れる事ができるこの時代は
むかしよりも、ぼくは好きです。

人の考えを知る事は、楽しみ以外の、何物でも
ありませんよね( *´v`)

読んでくださって、ありがとうございました。


あっぷことは
こんにちは、ことばです( *´艸`)

あなたは、自分の容姿って好きですか?
今回は「自己愛が過ぎると、どうなるか?」
突き詰めて考えてみたいと思います。

以前のデリカシーに関しての記事で、
社会的に害を成す三つの心理的要素
【Dark Tried】を紹介させて頂きました。

これら三つの要素は、それぞれ区別されながらも
すべての要素が重なりあって、人の性格、性質を
形作っています。

その内のひとつ「ナルシシズム」に分類される
特徴とは、どういったものなのかを
解説させて頂きます。

よろしくお願いいたします(*´v`*)

ナルシシズムとは

語源はギリシャ神話に登場する人物
美少年「ナルキッソス」が、水面に映る自身の姿に
恋をしたというエピソードに由来したものです。

水面に映る自分の姿に恋って・・
インコちゃんみたい(;^ω^)

意味は、自己を愛する、自己を性的対象とみなす
というものから「自己陶酔」「うぬぼれ」といった
意味合いで使われることが多いです。

「ナルシシズム」の性質を持つ方、または
他人にそのような特徴を持つと思われている方を
「ナルシスト」と言ったり、呼んだりします。

日常ではナルシストという言葉の方が身近ですね。

ナルシシズムの問題点

「自分の事を好きって、いいことじゃない?」

このブログでも、
自己評価の低い人に関しての記事や
コミュニケーション障害に関しての記事を
書かせて頂きました。

そういった方に共通する要素として
「自分に自信がない」という事実があります。

自分で自分を好きになることは、
自分に何らかの自信がないと難しいですよね。

その観点からすれば
「ナルシスト」ってむしろ良い事なのでしょうか?

自己評価は、低すぎても高すぎても
社会で生きていく上では、難しいものです。

「ナルシシズム」の性質の問題点は、
とっても簡単に説明すると

常に「俺はまだ本気出してないだけ思考」
なってしまうという事です。

「自分の事が好き」という思考は
「好き」の理由がどこにあるか、が重要です。

容姿、性格、能力、実績、などが
他者と比較して優れていると一目して
分かる場合などは

「他人よりも優れている部分を
有している自分が好き」
というのは
理屈として分かります。

自分を磨いて手に入れた価値に対して
正当な評価が出来ているのならば健全ですが
そうではない場合は、どうでしょうか?

「自分が自分だから理由なく好き」という
自己愛の形は、非常に保身的な考え方であり
「強固なもの」になりがちです。

つまり「理由もなく自分が好き」という思考が
絶対であればなるほど、他人への興味や配慮が
薄くなり、自分を守るため、他人を貶める事に
抵抗感を感じなくなる
、ということです。

「ナルシシズム」は自己中心的な思考であり
その根本を脅かしたり、考えが揺らぐ危険性が
ある場合、

手段を問わず、その脅威を排除しようとする
傾向があります。

対話して相手を納得させようとしたり、
相手の価値観を理解しようと努めるような
考え方にならないということですね💦

ですので「ナルシシズム」の性質の方は
自分を守るための手段が、常に
「相手に対しての攻撃」だったり

「相手より優れているという思い込み」
があるので
「相手の気持ちを無視した言動、行動」
が目立ちます。

上記のような特性を踏まえながら、
「自分は特別」という根拠のない思い込みで
自分以外の物事に対する、あらゆる配慮が
欠けるため、

関わる周囲の人間を疲弊させる
目的のために他人を利用する、などが
主な問題点といえるでしょうか(;^ω^)

ナルシシズムのメリットは?

では「ナルシスト」と関わることの
メリットとは、なんでしょうか?

これは「自己を愛する方法を学べる」こと
かなと考えます。

自己肯定感の低い人であれば
「自分を好きになるためのヒント」を
「ナルシシズム」の考え方から、学ぶことが
出来ます。

「ナルシスト」はポジティブな性質の方が
多いです。「自己を守るため」なのですが
「失敗」しても他責にしますし、自己愛を
高めるためならば「努力」もします。

自己愛の強さは自信に繋がりますので
目標が決まれば、それに向かって
能動的に動くエネルギーも豊富です。

上手く歯車がかみ合えば、社会的に成功する事も
出来る、考え方なのです。


対して「自己肯定感が低い」事は、直接
他人に迷惑をかける事は少ないかも知れませんが

「社会で成功したい」という願望があっても
自信の無さから能動的に動くことが出来ず
チャンスを逃したりすることが多いようです💦

「自信が無いこと」は
「過剰に根拠のない自信がある」
ことよりも
実は、難しい問題かも知れません(;^ω^)

「ナルシスト」の考え方、価値観は
なかなか理解できないかも知れませんが

いまは理解できない考え方にも
「参考に出来る」ことが必ず隠れているものです。

自分を評価することが苦手な方は、
他人への観察眼を凝らして下さい。

きっといつか「自分に転化」出来る日が
きますよ(*´v`*)

ま と め

今回は「ナルシシズム」「ナルシスト」
ついて、書かせて頂きました。

「ナルシシズム」とは「自己陶酔」や
「うぬぼれ」といった意味合いの言葉で

「過剰な自己愛」を有した性質の方を
「ナルシスト」と呼びます。

周囲に「ナルシスト」な考え方を持つ方が
いらっしゃる場合は、対処方法を考えないと

振り回されて疲れたり、(自分を守るため)
攻撃されたりというデメリットがありますが

自分に自信を持てない、という人の場合は
積極的に観察してみても、いいかも知れませんね。

どんな性質も一長一短だったりします。

世間ではマイナスイメージ一辺倒な言葉も
実際関わってみたら、全然違ったなんてことは
よくありますよね(#^v^#)

「レッテル」ではなく「その人自身」
関わる中で、自分も成長出来たら
素晴らしいですよね。


よんでくださって、ありがとうございましたっ



げきおこことは
こんにちは、ことばです( *´艸`)

「この人、デリカシーない人だな」と思ったり
人から「デリカシーないね」って言われる・・。

あなたにも、経験がありませんか?

この【デリカシー】って、一体なんでしょうか?

今回は「デリカシー」の意味と
どういう行動が、他人にとって嫌われやすいのか

また「デリカシーのない人」と思われないための
改善方法などを解説できればと考えています。

よろしくお願いいたします。

「デリカシー」とは

【デリカシー】の意味は

辞書によりますと
「感覚、感情などのこまやかさ。繊細さ。
微妙さ」ということのようです。

なんだか意味が微妙だなと思うのは
自分だけでしょうか(;^ω^)

「デリカシー」「デリケート」の名詞形であり
語源はラテン語「うっとりさせるような」
という意味合いのものです。

物質的に繊細なもの、壊れやすいものを感じとり
柔らかく扱おうと苦心する行動を、

いつしか人の性格などに当て嵌め
「デリカシーのない人」などと、
人を表現する言葉としても使うように
なったようです。

心理学的には「デリカシーがない人」
近い性質を持つ人の特徴として

【サイコパス】共感能力の欠如
【ナルシシズム】過剰な自己愛
【マキャベリズム】手段を厭わない利己主義


【Dark Tried】を共通項として
挙げられています。

デリカシーに欠ける人の特徴

「デリカシーがない」と言われる人に
共通する行動って、何でしょうか?

冒頭では【デリカシーがない人と言われる】
と書きましたが、実際は面と向かって
言われるような言葉ではないかな
と思います。

「デリカシーがないね」って、結構な悪口です。

大抵の人は、思っても、それをあえて本人に
伝えたりはしないと思います。

「デリカシーがない」と人に伝えるような人もまた
「デリカシーに欠けている」と、言わざるを
得ないからです(;^ω^)

【デリカシーがないと言われる行動】

①相手の体形や容姿を話題にする

➁一方的に喋る、話を聞かない

③立場をわきまえない、しない



①人の体系や容姿をどう感じるかは
「個人の主観」に寄ります。

例えば「ペットボトルの形状」
「意識して見たことない」人が多いなかで

「美しい」と感じる人「繊細」と感じる人
また「醜い」と感じる人なども、
少数ながらいらっしゃいます。

ですがこれは「個人の主観」ですので
公の場で、あえて話題には出しませんよね。

もしも職場などで「俺はペットボトルの形。
あれが正直、気持ち悪くてさ」
とか

「あのフォルム、感性を刺激される!」みたいな
事を、一般のコミュニティで言い出す方って
「変わってるなぁ」って思いませんか?

人の容姿などを、積極的に話題に出す方は
これと同じ事を【さらに難しいモチーフで】
していると、考えてみて下さい。

そして、そういう方は「悪感情」
喚起させる言い方をする事が多いです。

余程の語彙と、豊富な表現、そしてユーモアが
なければ、人の容姿を話題にして、
その場の主導権を握ったり、相手に好印象を
与えるなんてことは、

出来ないと思っておいた方がいいかなと思います。

➁言語によるコミュニケーションは
「対話」によって成り立ちます。

「自分ばかり喋る」という状況は
対話が成立しているとは言い難く

「相手」にとって、会話の満足度が
高いとは言えない状況になりやすいです。

また「人の話を遮る」
「相手の話題に乗っかって、
そのまま自分が喋ってしまう」
ことも

相手や周囲にとって「この人デリカシーないな」
思わせてしまう要因になります。

③自分が所属している会社で、
役職者や上役にも「自分の友達」のように
接してしまう方がいらっしゃいます。

これは「あえてそうしている」方や
「会社の社風」などで敬語を使わないように
言われている所など、その方のキャラクターや
会社の環境にも寄りますが

「その人の立場を尊重した態度」
取った方が「礼儀正しい人」「信頼できる人」
のように、周りが評価してくれる確率が高いため
結果的に、自分にとってプラスになります。

【デリカシーがない】と思われないために

相手に「デリカシーがない人」
思われないためには、何に気を付けたら
良いのでしょうか?

これは、自分の経験をもとに
お話をさせて頂きますね(*´v`*)

①何かを表現する時は、言葉を尽くす

例えば、相手の容姿をどうしても褒めたい時
(相手に自分を覚えてもらいたい時とか)

「かわいいね」「きれいだね」みたいな
【簡単な表現】では、聞き流されるどころか

「なんだこいつ、きもっ」みたいに、
逆に相手に不快感を持たれてしまう場合が
多いです( ;∀;)

特に男性が、女性の容姿を口に出す場合などです。

※基本的に女性は、好意のない男性には
【何をされても】嬉しいなどと思いませんし
逆に不信感を持たれてしまいます。

ですので褒めるのなら「容姿」ではなく
「内面的要素」「実際の作業」
褒めた方が無難です。

(ある程度関係性を築いた上で、ですが)
「〇〇さん、いつも助かっています。
今日のあの仕事は、〇〇さんだったので、
安心して任せる事が出来ました。
その柔らかい気配りと感性、
自分も見習います」

みたいなことを真面目に言ってみて下さい。
相手は「あ、ありがとうございます」
というしかないと思います。
・・あっ、これ引いてるのかも知れません!

そういえば、自分がコミュ障でした。
参考にならないですね(;^ω^)
反面教師にして頂ければ幸いです。

ぼくのことはともかく
どういった状況でも「言葉を尽くす」のは、
良い結果に繋がる事が多いですよ(*´v`*)

自分的には
「相手との文章のやり取りでは
相手の文章量と同等か、
それ以上の文章量で返信する」
ということを
常に意識しています。

これも勝手なこだわりです💦

➁「話す」より「聞く」

会話は「相手のお話を引き出し、聞く」ことが
出来れば、大成功です。

「自分の事を伝える」のは「求められた時」
だけでもいいのかなと思います。
「自分語り」は楽しいので、難しいですよね💦

「相手の自分語り」「楽しそうに聞け」れば
「デリカシーのない人」などと思われることは
きっとなくなりますよっ(#^v^#)

③相手の状況に合わせた対応をする

これは「空気読み」の能力とも言えますが

上司と個人的に仲が良いのであれば
職場でも「相手が良ければ」二人きりの時は
ため口でも良いと思います。

気を付けないといけないのは
例えば本社から、上役が職場に
来ている時も「上司に普段と同じように接する」
ことです。

こういう時、誰が一番怒られると
思われます?

そう「仲の良い上司」ですよね(;^ω^)

本社の上役から、職場の上司が
「お前は普段、職員にあんな態度を
取らせていて、何を考えているんだ」


「指導もまともに出来ないのか」

なんて、言われかねません💦

「仲が良い」方であれば、そんな人に
迷惑をかけないためにも

自分の「公」「私」の態度は常に
意識しておきたいものですね。

ま と め

今回は「デリカシー」について
その意味と「デリカシーのない人」について
書かせて頂きました。

「デリカシー」とは
「デリケートの名詞形」


「繊細さ。感覚や感情の細やかさ、
微妙さ」
を意味する言葉です。

「デリカシーがない」とは
「感覚や感情に対する配慮を欠いている状態」
というわけですね。

「デリカシーのある、なし」の判断基準に
絶対的な物差しはなく、個人の主観に寄ります。

「ここまではOK、ここからはNG」という
ラインを、関係性の中で判断しながら
「ギリギリを攻める」のが「芸人さん」だったり
「話術に長けている人」なのですね。

個人的には「話術スキル」って万能で、
コスパも汎用性も最強だと思っています(*´v`*)

今度生まれ変わったら、話術を勉強して
「ことばさんって面白ーい!」って言われるような
人生を送りたいなと思っています。

・・いや今からでもいいじゃん!










はい、今日もまた、ひとすべり。


読んでくださって、ありがとうございました。

いとまことは
こんにちは、ことばです( *´艸`)

あなたは「今の労働環境」に満足されていますか?
「セミリタイア」「アーリーリタイア」
労働者の夢ですが、実際はどうなのでしょうか?

今回は「セミリタイア」について
言葉の定義、メリット、デメリット

そして実際にセミリタイアを実行した時
どういった心境になるのか
解説していきます。

よろしくお願いいたします(*´v`*)

「セミリタイア」の定義

「セミリタイア」という言葉は、現在
辞書に載っていません。

この言葉は、1990年にタレントの
大橋巨泉さんが
「芸能界との交流を保ちながら海外で生活をする」
ことを「セミリタイア」と表現されたことで

世間に、徐々に浸透していった言葉です。

「セミリタイア」とは

「自分の時間を、仕事以外の事に使うために
定年を待たずに退職をする」
ことです。

アメリカでは「FIRE」
Financial Independence,Retire Early】という
言葉がムーブメントになっていまして

20代、30代の若さで「セミリタイア」をされる
若者が増えているようです。


もちろん、仕事を辞めたら収入が無くなり
生活が成り立たなくなるので、資産、貯蓄を
あらかじめ作っておき、

ここから片手間で仕事をしながら、収入を得ます。

この「完全に収入減を絶たない」ところに
「セミ」が、かかっていまして

「全く収入を得ないで、貯蓄のみで生活をする」
ことは「完全リタイア」と表現されるようです。

完全リタイア・・すごいですね(;^ω^)

「アーリーリタイア」という言葉もありますが
こちらは「早期退職」という意味合いの方が近く

企業の「早期優遇退職制度」に基づいて、定年前に
退職金を受け取ることです。
「希望退職」とも言いますね。

退職金を、数千万レベルで頂けるなら
「アーリーリタイア」も、魅力的ですよね(*ノωノ)
バブルの時代であればともかく
今、そんな企業が存在するのかという話ですが💦

こういった言葉は「サラリーマン」にとっては
やっぱり憧れるものです( *´v`)

時間労働の制約から逃れ、仕事のストレスから
解放され、毎日好きなことを、好きなだけ出来る・・

正に夢のような話です。

では「セミリタイア」のメリット、そして
デメリットとは、一体何でしょうか?

「セミリタイア」のメリット、デメリット

【セミリタイアのメリット】

①時間に余裕が生まれる

➁仕事のストレスが減る、なくなる

③生き方、場所の制限がなくなる



①これが一番のメリットですよね。

サラリーマンは固定給ですので、例えば
自分の仕事が早くて、他の方の半分の時間で
ノルマを終わらせた
としても

「その分、早く帰れる」
わけではありませんし
「技術が、給与に直接反映される」わけでは
ありませんよね。

優秀な方ほど、サラリーマンとしての働き方に
疑問を持ちやすいのは、こういう所だと
思います。

セミリタイアによって
時間に余裕が生まれるので、片手間で
収入を得られるようなことを、
のんびりやったらいいですし

➁の仕事のストレスも、会社員時代と比べると
随分と軽減するのではないかなと思います。

「仕事のストレス」って、大半は
「人間関係」ですので、そこを気にしなくても
良くなりますし、嫌だったら職場を変えるという選択が
以前よりやり易くなるかなと思います。

「生き方、場所の制限がなくなる」というのは

「職場に通う」という場所の制限が
なくなることで、好きな時に、好きな場所に
いけるようになります。

それこそサラリーマン時代では出来なかった
「海外でのんびり暮らす」
なんていう選択も、視野に入れやすいのでは
ないでしょうか。

「企業」に所属するということは「自身の
発言、行動」
を制限することと一緒です。

自分が勤めている企業の価値を損なうような
発言や行動をする事は
必然的に出来なくなりますよね。

これは、広い意味で考えれば
「自分の生き方の方向性」を仕事によって
制限、強制されているわけです。

もちろん、セミリタイアしたからといって
犯罪はダメですが「より自由に、どんな立場でも」
発言、発信が出来る余裕が生まれることは
メリットと言えるのかなと、思います。

【セミリタイアのデメリット】

では、セミリタイアのデメリットとは
どういったことが考えられるでしょうか?

①収入が(以前より)減る

➁「貯蓄」が減っていく

③社会との繋がりが希薄になる

④メンタルコントロールの難しさ


一応、項目として分けましたが、実は
「セミリタイア」をするデメリットは
一つに集約されると言ってもいいかと思います。

それは「精神を病む可能性がある」です。

「楽が出来ると思ってセミリタイアしたのに
どういうこと?」
と思われるかも知れません。

あなたは日々、どうやって
「じぶんのこころ」を保っていますか?

ぼくは、こうやってもくもくとブログを描いたり
イラストを描いたりという「作業」の時間と

妻と毎日、仕事や家のこと、これからの生き方、
他愛のない話をする「家族」の時間と

仕事で緊張感を持って、様々な人と関わって
人の機微を感じとる「仕事」の時間の中で

「誰かに必要とされているような」
錯覚を持ちながら、それが
いまのところバランス良く循環してくれているので
「こころ」を保っていられています。

「セミリタイア」とはこのうち「仕事」での
コミュニティを、意図的に「崩す」ことを
意味しています。

「今の仕事」に、何の意味も意義も
感じられず、自分にとって「マイナス」
でしかなければ別ですが

「今の仕事」に一定の価値を感じながらも
「セミリタイア」を選択された場合
その循環を崩すことになりますので

大抵の場合、精神に不調をきたします。

人間は「他者」の存在によって、
初めて「自己」を確立できます。
「ひとりで生きていける」人なんていません。

「自分以外」のすべてが、いつも様々な
ことば、反応、対応をしてくれるから、
傷ついたり、笑ったり、怒ったりできます。

他者との関わりで生まれる「悩み」
「自分の根源的な悩み」を一時的に
忘れさせてくれますが、

それがなくなった時「自分の根源的な悩み」
が肥大していきます。

例えば自分の「存在」を、好きになれない方が
「他者」との関わりでの悩みが無くなった時
楽に生きられるかというと、そうではなく

「そもそも自分は、なんでこんな醜いの」
「いつまでこんなに自分は気持ち悪いんだろう」


みたいに「自身の存在」について、
思考するようになります。

いえ、こんな風に言語化出来るものでも
ないのかも知れませんね。

漠然としたモヤモヤが次第に大きくなっていく
ような「不安の理由」が掴めない状態に
なるのは、とてもしんどいです。

こういう状態は、他者との関わりが希薄な環境ほど
なりやすく「セミリタイア」されて間もない頃は
状況に、精神が不慣れなため、メンタルが不調に
なりやすいです。

以上が「セミリタイア」のデメリットと
呼べるものかと考えます。

ま と め

今回は「セミリタイア」について
書かせて頂きました。

「セミリタイア」とは
「定年を待たずに退職し、仕事以外の
自分が有意義と思う時間の使い方をする
生き方の、ひとつの選択」
です。

「仕事をしないで、好きな生き方をする」
ということは、社会人からすれば
大変魅力的な選択であり

そこに「セミリタイア」を目標にされる方の多さが
表れているわけですが、

「完全な自由とは、牢獄である」という
言葉にもあるとおり、

「なにもしなくてもいい」というのは
「なにかをしなければいけない」ことよりも
実は、辛いことなのかも知れません(;^ω^)

やっぱり、選択の前には、思考が必須ですね。

折角勝ち取った「セミリタイア」の特権を
謳歌するため、そこに至る前に
「どうしたいか」「なにをするか」
事前に考えておきたいですね( *´艸`)


よんでくださって、ありがとうございましたっ

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