ことばの0からのビジネス~ゼロビジブログ~

大阪の福祉施設で働く社会人である「ことば」が インターネットでお金を稼ぐ(月500円でも!)ことを 目標に、ブログを更新しながら ビジネス関連の学習、日々の好きなものや作品、 楽に仕事と向き合うための考え方や、 対人関係での悩みを減らすための価値観をお勉強していきます。 漫画、イラストを描くのも好きです。 記事内のイラストは、ぜんぶ描いています( *´艸`) もっと増やしていきたい・・! よろしくお願いいたします。

カテゴリ: 楽に生きるための考え方

はずかしことは
こんにちは、ことばです( *´艸`)

あの・・すみません💦
突然ですが、あなたは
例えば友達の家とかで、急にもよおした時に

「ちょっとおしっこ・・」とか
「うんこしてくる」とか言えますか?


それとも「ちょっとトイレ借りるね」って言って
濁すタイプですか?

はたまた、報告せずに行きますか?

友達との関係値でも
変わるとは思いますけれど・・

あ、あと「下ネタ」って言えますか?

例えば「性的な行為」を言葉で表現したり
説明したりできますか?

ぼくは無理です。

自分がそういう言葉を口にしているのを
想像するだけで、意識が薄れます。
ほんっと気持ちが悪くて。自分が。

でもテレビとかで他人が話す下ネタは
特に何も思わないです。

芸人さんとか、唐突に下ネタをぶっ込んだり
されますよね?
ああいうのは、特に何とも思いません( *´艸`)

多分あれも技術だと思うのですが、唐突に見せて
やっぱり大半の芸人さんは間とか、タイミングが
とても上手なんでしょうね。
笑ってしまいますもの。

・・えっと、今回のテーマは
「恥じらいをずっと持ってしまうことに
意味があるのか、ないのか」

みたいな内容です。

これも悩みといえば悩みなのですが
今まで、あんまりちゃんと考えた事は
ありませんでした。

でも、この悩みも言葉で表現しておけば
何か意味が生まれるかも知れないと
考えたので、してみますね。

このテーマで、あなたに何かを
感じて頂けるのか疑問ですが・・笑
もし良ければ、読み進めて頂けると嬉しいです。

よろしくお願い致します( *´艸`)


 

【恥じらいとは】

ちなみに、ぼくは男性で
年齢もそれなりに重ねています。

おっさんのこんな話、まじで誰が興味を持って
読んで下さるんだと
、ちゃんと思っていますからね。

えっと・・
「恥じらい」という言葉の意味ですが
そのまま「恥ずかしがる」という事です。

含羞(がんしゅう)という言葉もあります。
文章語(文学などで使用される言葉)です。

「彼女の頬に含羞の色をみた」みたいに
使うそうです( *´艸`)情緒がすごい。

含羞に「む」の送り仮名をつけると
含羞む(はにかむ)と読むのだそうです。

照れる表現って、顔を赤らめて困ったような
笑顔を浮かべているイメージが、ひとつありますが
そういう感じなのかな?

日本語の難解さ、巧みさにはいつも驚きます・・!

たぶん一般的に「恥じらい」というものは
思春期辺りで、ある種のピークを迎えて
人生経験を重ねていくうちに、次第に
薄れていくものなのかなと思っています。

他人様の事は、何一つ分かりませんので
自分を例に、伝えさせて頂きますね。

何不自由なく育てて頂いた自分でしたが
残念ながら、幼少期から青年期に至るまでに
確固たる自己肯定感を得る体験が
上手に獲得出来ませんでした。

その結果、どうなったかというとですね

学生の頃から、ろくに友達を作れずに
過剰な自意識から登校拒否になったり
「なんでぼくみたいな人間が生きているんだ」
みたいな、内罰的な思考になってしまいました。

「人と関わる機会」を損失し続けた結果
自分の表現方法が分からない人間になり

その結果の一端として、今現在まで
「恥じらい」という感情を保持したまま
歳を重ねている状態と、相成りました。

理由は分かりませんが、今も手汗がすごいです。

自分の中の、触れたくないものに
無理やり触れているような感覚なのでしょうか。

ですが、ここで自分と向き合っておかないと
今後、健全に人間関係を構築する事なんて
出来ないような気がします( *´艸`)

【性の喜び(が分からない)おじさん】

例えば子供の頃「友達とエロ本を回し読み」したり
クラスメイトと「可愛い女子ランキング」を
発表し合った経験は、自分にはありません。

あなたはありますか?

ある方は羨ましいです。自分も友達と、
ざっくばらんに異性への想いを
語り合いたかったです・・。

たぶん、世の男性はそういう体験を経て
自分の中に「恥じらいの線引き」
するものだと思うのです。

女性は少し違うのかも知れません。
ちょっと分かりません。

「恥じらいの線引き」とは

「ここまでは言っても恥ずかしくない」
「ここまでは、この行動をしても平気だ」
みたいな「自分の中の恥ずかしさの基準」です


想像してみて欲しいのですが

あなたが「俺は〇〇(異性の名前)が好き!」と
最初の友達に初めて伝えた時に

「初めての行動に対しての相手のリアクション」って
めちゃくちゃ重要では、ありませんか?


相手が「おーわかるわー!」みたいに
肯定してくれるのと

「・・うわっキモ・・」
みたいに、肯定でも否定でもなく
「自分の存在に対しての一撃」
のようなリアクションをされるのでは

以後の自己表現の発露自体が
変わってきてしまうのではないでしょうか。


何が伝えたいのかといいますと
ぼくが今も過剰に恥じらいを持っている
理由のひとつに

「恥じらいの線引き経験がなかった」ことが
挙げられるのではないかなという事です。

自分の事ですので、どうしてもネガティブな印象で
伝えてしまいます。フラットではなくて
申し訳ないです。

では「恥じらいを人より感じてしまう人」に
何かメリットは存在するのでしょうか?

【恥じらいのメリット】

「恥」という感情は、人間社会で秩序を乱さずに
他人と共存していくための「防衛機構」の
ようなものだと思っています。


その理由は、発露が
「外界からの刺激」ではない点です。

怒りや悲しみは、他人の行動や言動
環境の変化に影響されて発露する
いわば「外界からの刺激で起こる
感情表現」
が常であるのに対し

「恥」という感情は、発端は
「外界からの刺激」かも知れませんが


次第に「自分が勝手に想起した結果
その感覚に陥るもの」
だからです。

「恥」という感情は、様々な行動の
強力なストッパーになります。

人は少なからず「恥ずかしい」という感覚を
自身の体験から学んでいます。

運動会の徒競走で、自分が一番足が遅かったり

全校集会で、他の生徒の前で先生に厳しく指摘されたり

学校のトイレで排便をした事を言いふらされたり

クラスでペアになって行う活動で、自分だけあぶれたり


そういう悲しい体験の中で同時に
「恥ずかしいという感覚」も味わいますが
その想い出を想起する時
「もうこんな気持ちを味わいたくない」

以降の自身の様々な行動や思考に
影響を及ぼします。

「恥ずかしかった記憶」が、その場所に
強力なゴム付きのフックとなって
設置されるようなものです。


一度恥ずかしい体験をすると
その場所から踏み出す事に躊躇いを覚えるため
同じ行動を起こす事に、他人に比べて
余分なエネルギーを使ってしまいます。

ただ「恥じらい」は、人が規範を持って生活する上で
有用なストッパーの側面も持ち合わせています。

他人に対して「恥ずかしい」と思うから
大半の人は、モラルやルールを逸脱せずに
社会の中で、他者と共存していけるのだと思います。

集団で生活していく中では、「恥」という
感情は、なくてはならないものなのですね。

【異性への恥じらい】

あなたは、男性ですか?女性ですか?

ぼくくらいの年齢で、ぼくのような
精神性の人間に
お会いした事がないのですが

多分ぼくと同年代くらいの方は、皆さん
「恥じらい」と上手にお付き合いして
社会で生活をされているのだろうなと
思っています。
 
自分の話ですが
異性のお友達とお話していて
その方が「ちょっとおしっこ」と
席を立った事がありました。

この時、あなたはどういう気持ちになりますか?
・・まあ、友達との関係値によりますよね💦

ぼくはその時、心の臓がビクッとなりました。
「このひと、女性なのに・・!」と。

ポリコレやジェンダーにおける表現の配慮に
著しく欠けた自身の価値観が、首をもたげました。


『えっトイレでいいのにっ、なんでわざわざ
おしっこなんて恥ずかしい言葉を言ったの?
恥ずかしくないのっ?』

みたいに、内心とてもドキドキしました。

言葉にはしていません。

また、話題の中で「この間さぁ、いきなり変態に
お〇〇〇!(放送禁止用語)って言われたんだけど
どう思う?ありえなくない?」

みたいな話題の時は、たまらず
「ちょ・・なにを言っているのですか!
そんな直接言葉にしなくてもいいでしょ!」


と、感情的に言ってしまいました。

相手は「え?私が言ったんじゃなくて、変態が
言ってきたんだけど」
みたいに言っていました。

「でも、もう少し伝え方に恥じらいを・・」
みたいに伝えたのですが
「いや、しゃーなくない?相手が言ってきたのに。
じゃあなんて言ったらいいの?」

と言われましたので

「いや、まあ分かんないですけど・・」
と返答するに留まりました。
お察しの通り、ぼくは
異性に幻想を抱いているタイプの
重度のむっつりです。


このように(?)ぼくと同年代、もしくは年齢が
下のひとでも「何が恥ずかしくて
恥ずかしくないか」
の線引きが
出来ている方が大半です。

ぼくに友達が出来ない一番の要因は
こういう所にあるのかも知れません。
というか、こんな人間と話して
なにが楽しいんだ
という感じですね。

文章に起こすと改めて感じます。

【まとめ】

 今回は「恥じらいを持ち続けることに
意味はあるのか」
という内容で
書かせて頂きました。

(強引に)まとめますと
「恥ずかしいという感情は、人が社会生活を
営む上では必要不可欠なものだが、過剰になると
自身の成長を阻害したり、心を許せる友達や
パートナーを作りづらくなる」


という感じでしょうか。

・・ただスケールの小さい
自分語りをしただけでしたね。

でも恥ずかしがる異性を見るのは
嫌いではないんです、これが。
あなたもそうでしょう?


・・ことばでした( *´艸`)
読んで下さってありがとうございました。

からだはることは
こんにちは、ことばです( *´艸`)

今回のテーマは
「反応をすることが、いかに大切なのか
改めて考えてみる」
というものです。

ぼくが出来ているから
あなたもこうしてみたら?

みたいなお話ではなくて、相手の行動に対して
自分が常にどういう対応をすれば

相手が楽なのか、気持ち良くなって
もらえるのかを考えて、実践出来たらいいなぁ
という

言わば「願望」です💦

ちょっと分かりにくいでしょうか?
なるべく伝わるように、書かせて頂けたらいいなと
思います。よろしくお願い致します。

【リアクションとは】

「リアクション」の意味ですが
「外からの働きかけを受けた事で生じる
反射的な対応」
の事です。

英語のreactionが由来で、カタカナ表記が
浸透していますね。

行為、動作を表すaction(アクション)
再び、新たに、反対などの意味の「re」を
つけると「re-action」リ-アクションとなります。

自分主体で発信することではなく
「相手が発信したことに対しての自分の反応」
差します。

ぼくは、リアクションという言葉を聞くと
芸人さんを連想します。

漫才における、ボケに対してのツッコミ
「なんでやねん!」もリアクションですよね。

ボケを活かすのも、腐らせてしまうのも
ツッコミの役割の人のリアクションが
大事だったりします。

芸事だけのお話ではなく
日常で日々、他人とコミュニケーションを
とっていると、改めてリアクションって
大事だなと感じる機会が多いです。

【意識した経験】

自分が普段、他人にどういうリアクションを
取っているのか
って、あなたは意識したこと
ありますか?

ぼくは、現在の仕事(介護職です)を始めてから
意識するようになりました。

介護職の前は、店舗で接客業をさせて
頂いていました。

自分では全く意識していませんでしたが
当時、ぼくは身振り手振りを交えた
過剰なリアクションを取っていました。

同じアルバイトの先輩に
「お前って、なんでそんな演劇みたいな
リアクションなん?」
みたいに
イジられた事もあります笑

後で考えた時に、自分に自信がないぼくは
言葉に添えた、ボディランゲージで
想いを相手に伝えようとしていたのかなと
納得しました。

当時は無自覚で、コミュニケーションの齟齬が
ないように必死だっただけなのですが

過剰なリアクションは、どちらかといえば
好かれていたような印象


過剰で気持ち悪いとか、変な奴だななどの
悪印象を、相手に与えていたわけでは
なかった
ようです。

【プロのリアクションから学べること】

プロのリアクションとは
どういったものでしょうか?

俗にいう「イジられ芸人」というカテゴリに
括られる、芸人さんのリアクションは
プロそのものですよね。

番組の企画で、痛かったり、熱かったり、寒かったり
する色々な何かに挑戦して、
笑いを生み出されているわけですが

視聴者であるぼくらは「何を見た瞬間」
それらを「面白いと捉える」のでしょうか?

世代が限定されるかもですが
ダチョウ倶楽部さんの熱湯風呂における
一連のリアクション
を例に、考えてみますね。

①アクリルかなにかで出来た、透明な浴槽に
熱湯が並々と注がれています。

②番組の流れで、上島竜兵さんが
その浴槽に入らざるを得なくなります。

③周りの人たちがそれを「手伝う」という名目で
上島さんの背中を押そうとします。

④自分のタイミングで入りたい上島さんが
その時「押すなよ!絶対に押すなよ!」と
叫んで、周囲を牽制します。

⑤上島さんの願いも虚しく、目を逸らした瞬間に
周りに背中を押されて、熱湯風呂にダイブします。

⑥自分のタイミングで入れなかった上島さんは
吃驚した気持ちと熱湯の熱さを、身体の全身と
大声を使って表現します。

⑦熱い熱いとのたうち回りながら、普段では
考えられない俊敏な動きで浴槽から飛び出ます。


・・ここまでが、熱湯風呂における上島さんの
一連のリアクション
です。

上記の中で、あなたが「一番面白く感じる部分」
どこでしょうか?

お笑いの感性は人それぞれですので
優劣のお話ではないことを先に断っておきますが

恐らく一番最後の
「上島さんが熱湯風呂に落ちた後のリアクション」
笑う方が、大半なのではないでしょうか。

浴槽が透明なのも、熱湯風呂に入る流れも
周囲が手伝おうとするのも「押すなよ!」

牽制するのも

最後の「上島さんのリアクション」を
視聴者に伝わりやすくする目的

集約されています。

いわば①~⑤は「オチの効果を最大化するために
必要なお膳立て」
ですね。

ここで例えば、上島さんのリアクションが
薄かったらどうでしょうか?

お膳立ての部分が一緒でも、笑いの量に関して
かなりの差が生まれる
のではないでしょうか。

リアクションの根底は「共感」です。

相手が受けた「外界からの刺激」に対して
想定した反応よりも低かったり
全然違ったり(泣いて欲しいのに笑ったり)すると
受けた側は、不安を覚えます。

熱湯風呂に入っても、平然としていたり
あまり嫌そうじゃなかったりした場合

視聴者が抱く想いとしては
「・・本当は熱くないんじゃない?」
「な~んかやる気ないなぁ」
「ちゃんと仕事してんの?」
みたいな

「想定していた反応ではない事」に対して
落胆や、怒りのような感情を抱く方も
いらっしゃいます。

つまり、リアクションが「薄い」と
印象がネガティブになりこそすれ

よりポジティブな印象に変わることって
少ない
のではないでしょうか。

プロの芸人さんでいうと
キングコングのお二人は
「対人のリアクション」も、とても上手です。

ぼくは梶原さんが、カジサックとして
youtuberで活動され始めてからやっと
キングコングの魅力に気付いたクチですが

梶原さんも西野さんも
相手に対しての「聞く姿勢」がとても素敵です。

その上で、ゲストに対しての「話の引き出し方」
少し違っていて、梶原さん(カジサックさん)は

常に相手の事を考えながら、徹底的に聞き役に回りつつ
会話の隙を探りながら、空気を作っていく
ような印象です。

対して西野さんは、ゲストや視聴者に
いま、ご自分がどう映っているかを常に考えながら

「双方が得をするような」気持ち良いくらい
振り切ったリアクションをされる
ことで、結果的に
ゲストや視聴者を楽しませています。

梶原さんは「相手を主体にした
相手のためのリアクション」


西野さんは「自分を主体にした
双方のためのリアクション」

みたいな印象です。

どちらもプロの技術で、とてもぼくが
真似を出来るものではありませんが

この表現の違いは「お二人の自己肯定感の違い」
なのかなと思っています。

あんな表現が出来るお二人が身近にいらっしゃる
周りの方々は、幸せだろうなあと思います。

【リアクションの大切さ】

相手の行動に対して、反応を意識して
返し続ける事は、人間関係に重大な影響を及ぼします。

日本で生まれ育った方は、国民性からか
和を重んじ、場を乱す事を良しとしない方が多く
その分、自分を表現することに苦手意識を
持たれるようです。

リアクションを取ることは
相手への「距離感」を示すためにも
大事な事です。

ぼくの数少ないお友達にも
「本心が相手に伝わらない」
という方がいらっしゃいます。

その方は、物事に対しての洞察が深く
ご自分の考えを言語化するのが上手で
お話すると、とても楽しい時間を
提供してくれます。

人と話す時に感情が乗らず
表情の変化も比較的薄いので

「何を考えているかが
喋らないと伝わりづらい」
のですが
「感情や表情といったリアクション」
含めた表現に乏しい方は

相手に「距離感を間違えた対応」
取られやすくなります。

例えば、なにか指摘をされた時
ぼくのお友達は、誰に何を言われても
表層的な変化が薄いため

「結構きつい事言われたのに、平気なのかな?」
「動揺してなさそう・・メンタル強いなぁ」


みたいな印象を、自分も受けていました。

ですが後でお話した時に
「あの時に言われた言葉で、すごく傷ついた」
「家で毎日泣いてた」

みたいにお話してくれて

「そうだったんですか・・」と
びっくりしたのを覚えています。
※友達にも敬語なのは、ぼくの癖です

傷ついた経験を話してくれているときも
感情が乗らずに表情の変化も薄いので

これがスタンダードなんだから
こういう時、とても辛いだろうなぁと
思いました。

自分の心の動きを上手くリアクションして
表現出来る方は、きっと様々な面で
プラスに働きます。

人の心理の特徴として
返報性の法則というものがあります。

相手にされた事と同等量の感謝や恩を
自分も返したくなる心理
の事ですが

表現が感情や表情に上手く表せない人は
相手が「この人にはここまで言っても大丈夫だろう」
という見極めを、間違えてしまう確率が高まるのでは
ないでしょうか。

また、相手に感謝していても
それが上手に伝わらないために

「本当に感謝してくれてるのかな?」
「自分のことなんて何とも思ってなさそう・・」


みたいにマイナスに思われやすく
コミュニケーションに
齟齬が生まれてしまいます。

「他人の考えていることを
完全に把握すること
は、絶対に出来ません。

人が想いを伝える手段は、言語と
非言語(身振り、手ぶり、アイコンタクトなど)
になりますが、どちらを使ったとしても

「相手に自分の伝えたいことを100%伝える」
ことは出来ません。

意味を取り違えたり、間違った理解や解釈を
与えたり、受けたりする事を
「誤解」といいますよね。

この「誤解」を与えたり、受けたりする可能性を
少しでも減らせる技術が「リアクション」である

ぼくは思います。

言葉を尽くしても、分かり合えない人もいます。
それは仕方がない事です。

ただ、本来は仲良くなれたはずの人同士が
誤解によって離れてしまう状況は
とても悲しいことです。

あなたに「リアクション」の大切さが
少しでも伝わったら、嬉しいなと思います。

【まとめ】

今回は「リアクションの大切さ」について
書かせて頂きました。

リアクションとは「相手が発信した事に
対して反応を返す」
ことで、言葉以外の
表情や態度なども含まれます。

リアクションが上手な方は、相手に
「自分はあなたの事を、こう思っている」
という想いが伝わりやすいため

お互いに「距離感」を掴みやすくなり
感覚が合うなと思う人同士は
そのまま仲良くなれたりします。

リアクションを意識することは
人の中で気持ち良く生きていく
ためのものなので

まずは、ご自分が
「この人楽しそうに笑うなあ」とか
思う人の行動を、ちょっと意識して
見てみると、参考になるかも知れませんね。

あなたが日々、少しでも楽しく
過ごせるように願っています。


ことばでした。
読んで下さってありがとうございました。

はげますことは
こんにちは、ことばです( *´艸`)

今回のテーマは「周りの目を気にしすぎてしまい
自分を出せなくて、悩んでいる人に
掛けて差し上げられる言葉を探してみる」
という
内容です。

テーマをそのままタイトルにすると
長すぎるので、悩み相談みたいにつけました。
SEOとか、全然考えれていません。

あなたは、あなたのままでいいんです。
ありのままに生きましょう。

(この文言でブログを締めると思います)

偉そうですみません。
よろしくお願いいたします( *´艸`)


【人の事が気になる】

他人と比較して、自分の不出来に落ち込んだり
集団の中で、人の目や態度を気にして
本来の自分の力を出せない・・。


あなたには、こんな経験はありませんか?

ことばは、自己評価が低い故に
自分に自信がありません。

現在も、常に人の目が気になりますし
一人で外出しても、お店で店員さんに
話しかけられたりするのが
ものすごく苦手です💦

飲食店で、自分で声を出して店員さんを
呼ぶのも苦手です。
呼び出しボタンがあるお店は助かります。

自分に「発揮して、人に重宝がられる能力」が
そもそもあるのかという根本的な疑問もありますが
それは、今回は置いておいて・・

どういう考えかたをすれば
「あまり人の事を気にせずに、自分を出せるのか」
気になりませんか?

ぼくは気になっています、ずっと。

叶うなら「存在するという苦しみ」からの
解放の解法を、どなたかに示して頂きたいのですが

きっと誰にも出来ないのを理解した上で
自分でも、考えてみますね。

【「ありのまま」とは】

「アナと雪の女王」の劇中歌「Let It Go」の歌詞の和訳
「ありのままの~」というフレーズ、流行りましたね。

素敵な言葉です。
どんなときも「ありのまま」の自分で生きていくことが
出来たのなら、どれ程充実した人生になるのでしょうか。

ありのままの意味ですが
「実際の、嘘偽りのない姿」だそうです。

つまり「ありのままの自分」とは
「自分で自分に、嘘をついていない状態」
という事なのでしょうか。

自分で自分に「嘘を吐く必要がある状況」って
他人に「認められたい」「好かれたい」
「嫌われたくない」という想いがある時で

「相手に自分を、より良く見せようとする意識」
働いているときかなと考えます。

こういう方は、生真面目で思い込みが強いという
心理傾向があります。

それと、SMAPさんの曲
「世界に一つだけの花」の歌詞も素敵です。

「ナンバーワンにならなくてもいい
もともと特別なオンリーワン」


こちらにも、ぼくは救われました。
競争が苦手なので、自分を肯定してもらった
みたいな感覚を持ちました。

言葉は共感を集めようという側面で
大衆に向けて放たれた時、とても優しく
耳障りのよい温度感を持ちます。

「ありのまま」も「オンリーワン」も
社会の性質、そのままを表現していれば
良かったのになと、強く思います。

人が、自己を表現しながら活動をすると
必然的に「勝ち負け」「優劣」が生まれます。

もうこの時点で
「誰も傷つけずに生きていく事」は出来ません。
その事実は、本当に悲しい事だと思います。

例えば、ぼくはブログの活動報告として
PVとUUを報告しています。

最近では、一日のUUが10を超える日も
ちらほら出てきました。
収益化を目指していますが、いまだ0円です。

人の報告って、読まれる方の状況によって
抱く印象が変わりますよね。


例えば、ぼくの報告を読まれた方で
その方の状況次第では

「私は、まだPVが一桁なのに・・」とか
「こんな無意味なブログ、何が楽しいん?」とか
「知らん。興味ないわ」とか
「こんなブログでも1日10人アクセスあるのに
俺のブログは・・」とか。

受け取り方は、人それぞれですよね。

ぼくも、最近は検索するのを控えていますが
SNSの書き込みで

「まだPVが1日に100程度・・。はあ・・。」とか
「今日の作業。ブログを2記事更新と
過去の記事のリライト。
収益は〇万円。さあ積み上げるぞ」


みたいな「感想や報告のツイート」が目に入るたびに

「1日にPV100で凹むとか・・ぼくなんか・・」とか
「がんばってるなぁ。
それに比べてぼくはなんもしてない」


みたいに、勝手に比較して勝手に心がざわついて
落ち込んでいました。

PVやUUなどは、数字でハッキリと示されるので
どうしても他の方のそれと
比較してしまいやすいですが

ブログのようなことでなくても

・同期との立場や収入の差
・家庭環境や境遇、学歴
・配偶者の有無、性別、容姿
・身長、年齢、体重・・

人はありとあらゆる要素で
とにかく「比較」します。


価値感は人によって違いますが
「基準が違う」だけで
「何かを比較する」のは皆、同じなんです。

【ABC理論】

心理学では、非合理的な心理傾向
「〇〇でなければならない」という考え方や
「根拠もなく悲観的な考えをしてしまう」ことを

イラショナルビリーフ(irrational belief)
いいます。

非合理的な心理傾向には
4つのパターンがあるとされていまして

①しなければならないという思い込み
②悲観的な思い込み
③卑下をしてしまう思い込み
④我慢が出来ない、耐性が低いという思い込み


自分や他人を傷つけたり
外界からの刺激に過剰に傷ついたりしてしまう原因を
上記の4つのパターンに分類しているという事です。

こちらは、アメリカの臨床心理学者の
アルバート・エリスさんという方が提唱した
ABC(DE)理論の中の言葉です。

ABC理論とは
「人の見えている世界は、起こる出来事ではなく
その人の認知で変わる」
という
メンタルヘルスなどでも使用される、論理療法です。

Activation event=出来事
Belief=信念
Consequence=結果


例えば、ぼくとあなたに同じ「出来事」が起こった時
二人の「認知が異なる場合」では
「受け取る結果」がそれぞれ違うというものです。

ぼくの場合「非合理的な信念」で
「出来事を認知」するせいで「傷つく」わけなので

この「出来事(A)」と「結果(C)」の間の
フィルターである「非合理な信念(B)」の部分を
適切なものに変えてしまいましょう
というのが

ABC理論であり
メンタルヘルスにおける「論理療法」です。


1955年に、この理論は提唱されています。
ぼくは、たったいま知りました。

・・なんという無知な自分・・

はっ!また認知が歪んでいる!

ですから、こういう「何も知らない無知な自分」
という捉え方ではなくて
「新しいことを知れて、また一つ賢くなった
」と
前向きに受け入れようねという事ですね。

現在進行形で、思い知りました笑

ただ、こういう心理学の言葉や理論を
知識として知っても、それを
自分に置き換えて実践することって
なかなか出来ませんよね・・。

突き詰めると「要は気の持ちよう」という
とっても当たり前で真っ当な結論に
なってしまいますし💦

ぼくのような、新しい事を覚えるのも
なかなか難しい人間に刺さる言葉って
なにかないのかなと、考えてみます。

【素の自分】

あなたは、人の目を見れますか?

自分は「仕事以外で外出した」状況ですと
全く見ることが出来ません。

いまは仕事は、介護職をしていまして
業種は大まかに括ると、接客業です。

「接客業は自分には出来ない」と
学生の頃は思っていました。

ですので、絵を描いて生活出来たらいいなぁと
思っていたのですが、そもそも「投稿する
勇気も自信もない」
という有様でした。

今は、描いたイラストや書いた文章を
発信するための障壁が、とても低くなったので
良い時代になったなぁとつくづく思います。

ただ、ABC理論よろしく、プラスに考えれば
今の時代にぼくが学生だったら、絶対に
仕事で接客業を選択することはなかったでしょうし

これまでの選択を後悔をしている
というわけではありません。

特別なことでもありませんが
職場では「仕事の人格」を作っています。

「人格を作る」というのは
「意図して、ありのままではない自分で接する」

みたいな事で

上の項目で書いた
「他人に自分をより良くみせよう」という
意識からではなく
「仕事を円滑に進めるためのもの」です。
※結果としては同じかも知れませんが・・

なんでしょう、ゲームで例えると
「別のキャラクターを作って、そっちで
経験値を積む」
みたいな感じです。

介護施設なので、利用者様と話す時や
職員さんに指示をさせてもらう時などは
仕事の人格で接しています。

そちらですと、人と話す事も割と出来ますし
ちゃんと目をみて、対応も出来ます。
口下手なのは、変わりませんけど。

とはいえ、最初は全然「人格をつくる」ことなど
意識していませんでした。

意識するようになったのは
役職を頂いた、ここ数年の事です。

前の職場では、人と話す時や職員さんと接する時
ぼくの顔が緊張と高揚から常に紅潮していたので

職場の人に「顔がいつも赤いけど、
なにかの病気なの?」

心配されたことがあります。

「人と話すという行為」をしている事が
自分の中で消化出来ないため
いつも不安で押しつぶされそうだったんです。

こんな態度で受け入れられるかなとか
気持ち悪いと思われていないかなとか
声を聞き取ってもらえてるかなとか
ぼくの意図がちゃんと伝わるかなとか

そんなことばかりを考えていたため
業務になかなか集中出来なくて
苦心しました💦

ただ、介護職で利用者様と接したり
介助をさせてもらう時は、余計な事を考えず
業務に集中出来ている自分がいました。

「この差ってなんだろう・・
高齢の方と、そうでない方の違い?」

「認知症の方と、そうでない方の違い?」

「もしそうだとしたら、自分ってなかなかに
最低な区別をしている人間だな」
みたいに考えたり。

・・心の動きの説明は難しい💦

いまは「顔の紅潮」は、随分マシになりました。
その理由は、介護職で現場経験を積ませてもらって
フロアリーダー、管理者などを
させてもらえるようになって

「指示される立場」から
「指示をする立場」に役割が変化したからです。


ぼくの性質的に、人のマネジメントは
そこまで苦ではなかったようで

人にお願いする時は、どう頼めば
お互いに気持ち良く動けるのかなとか

どういう言い方をすれば、人を嫌な気持ちにさせず
自分の考えを伝えられるかなとか

「考えても解決しない、内面の悩み」から
「考えると解決出来る、対応の悩み」に
脳のリソースを、徐々に割けるようになりました。


それと「副業をしよう」
思い立ったのも大きいです。
こちらのブログなんですけどね。

更新しても、ぜんぜんPVが伸びず
改めて、自分の能力の無さに打ちのめされて

それでも、もぞもぞともがく中
「時間に対してお金が頂ける」という
サラリーの有難さ
が、心の支えになりました。

ビジネス的な思考も、心理学と似ているものが多く
合理的で納得のいくものが多いので

メンタルが弱くて、これという考えの持てない
自分には、刺さる内容が多かった
です。

「素の自分が、どうして他人に
受け入れられると思うのか」


この考え方は、ぼくの尊敬する
ゆうしゃさんというゲーム実況者が
なにかの配信で仰っていた時に

特に印象に残っている言葉の一つです。

ぼくの、とりあえずの結論として
「社会で、ありのままに生きるためには
ありのままではダメだと思い知る」

ことが、大事なのかなと思っています。

【まとめ】

今回は
「周りの目を気にしすぎてしまって
自分を出せないと悩んでいる人に
かけて差し上げられる言葉はあるか」
という
内容で、書かせて頂きました。

人は意外と「外的要因の悩み」を抱えている方が
それを解決しようという意欲を発揮して
がんばれる事が多いのですが

その悩みが解決して「悩む事柄がなくなる」と
次は「内的な悩み」に意識が向けられます。


内的な悩みとは
「自分の容姿」とか「性格」の悩みです。

本来「些細なこと」であるはずの悩みも
「他に悩みがない」と、どんどん
自分の中で大きくなって

それに自分が耐えきれなくて、悲しい選択を
してしまう事もあります。


人は、常になんらかの悩みを抱えてしまう
生き物なのでしょうね。

「すべての解決を望む思考」よりも
「不安の中で生きていく術」を
身に着けていければいいなと思います。

・・こんなことをいくら書いても
きっとぼくは、仕事以外では
人の目を見れないでしょうし

自信のなさも、卑下する癖も
一朝一夕で培ったものではないので
なかなか治らないでしょう。

ですが「マシになった」と自分では思います。
以前と比較して、この世界で少しだけ
「生きていきやすくなった」と思えます。

それは、色々な価値観に触れて
経験させてもらった結果です。

あなたも、もし今が苦しくても
どうしようもないと思っていても

「それでいいや」と受け入れて
ゆるゆる生きたらいいと思います。


「何かを生み出さないと
生きている意味がないなんて
そんな馬鹿なことがあるもんか」

※ハチミツとクローバーより※

意味とか、理由とか
効率とか、生産的とか


考えると疲れてしまう時期もありますね。

そんなときは「ありのまま」
現状の自分の受け入れ
自分で自分を、肯定して差し上げて下さいね。


あなたは、あなたのままでいいんです。
ありのままに生きましょう。


・・こんな長文ですみません。
まとまってないですし💦

ことばでした( *´艸`)
読んで下さってありがとうございました。

うらではつらいことは
こんにちは、ことばです( *´艸`)

今回のテーマは
「楽しい仕事なんてあるのかな?」
という内容です。

結論から書かせて頂きますと
「仕事は楽しくはないけれど、他人に
楽しく伝えることは出来るかも」
というものです。

よろしくお願い致します( *´艸`)

【仕事とは、そもそもなんなのか】

あなたはお仕事、楽しいですか?
いま、楽しく感じられているのであれば
本当になによりです( *´艸`)

ぼくの今までの仕事経験ですが、
真似事の営業から始まり
いくつかの接客業を経て、今は福祉・・
介護施設で働いています。

子供の頃は「消防士になりたい」などと
思っていました(ミニカーが好きだったので)

「仕事の定義」ってなんでしょうか?

ググってもいまいち要領を得なかったので
自分で考えてみますね。

「自分が世の中に与えた価値が
金銭的な対価として、1円でも受け取れるもの」

なのかなと、思います。

「金銭を受け取れる作業」が仕事で
「金銭が発生しない作業」はボランティアだと
自分では考えています。

今は、職業選択のための材料というか
「その職業に就く前に、ネットなどで
情報をいくらでも仕入れることが出来る」
ため

自分の性格、性質と相対して考えて
「自分に合うか、合わないか」の見極めが
ひと昔前より、容易になったと考えています。

ですのでネットが普及する以前よりも

「この仕事、思っていたカンジじゃない」
とか
「まじでぜんっぜん想像と違う💦」みたいな理由で
即退職される方って、総数的には
減っているのではないかな?と思います。

若い方は「Youtuberなどの配信者」になりたい方や
ひと昔前でしたら「芸能人」「お笑い芸人」
「プロのスポーツ選手」などが、上位ですし
もちろん今も、人気で憧れられる職業と言えます。

単純に疑問に思いませんか?

「星の数ほど仕事が存在する中で
なぜ人気がある職業と、ない職業が生まれるのか」


「人気のある職業とない職業の違いは
いったい何なのか?」


ぼくも、もちろんすべての職業を経験したことは
ありませんが、大半の「仕事」は
「単純な作業の繰り返し」で構成されています。

突き詰めれば、どの「仕事」だって
「人間が作業として実施すること」の差に
そこまで違いはないはずなんです。

なのに「人気、不人気」の差は
どこで、何が理由で発生するのか。


ぼくは「その職業で、仕事を魅力的に伝える
象徴のような存在がいるかどうか」
だと
考えるようになりました。

【魅力の伝え方】

ぼくは、介護職をしています。
あなたは「仕事の介護」
どのようなイメージを持たれていますか?

ブログのネタ探しのため、SNSなどで
「介護」で検索をしますけれど

なんというか、介護の仕事の内容を
楽しそうに書いていたり、伝えていたり
されている方って、少ない・・というか

ほとんどいらっしゃらないような
印象を受けます。
(ぼくが探し切れていないだけかも)

介護職の方のつぶやきって、おおまかに
2つに分かれている印象です。

①仕事の愚痴、不満をつぶやく方

②いかに「やりがい」のある
仕事なのかをつぶやく方


①の方は、例えば
「今日、利用者様に〇〇みたいな暴言を吐かれた」

「ほんと最悪。〇〇(職員さん)がミスしてくれた
お陰でサビ残(サービス残業)だわ」

「この施設終わってるわww
今月だけで〇人辞めたww」


みたいな、ネガティブな発信をされている方。

そして②は、例えば

「介護はお金じゃない!人のためになる
崇高な仕事なんです」


「今日も一日、利用者様から感謝の言葉をもらえて
本当に充実していた。介護ってホント
やりがいがあって楽しい♪」

のような感じです。

どのつぶやきの方も、その方なりの事情や
価値観があり、否定をしたいわけではない事を
前提に、書かせて頂きたいのですが

仕事はなにをしても、不満は生まれますし
愚痴を言いたい時もあります。

そして、楽しく感じる瞬間も、報われたような感動を
覚える瞬間も、継続していく中で、必ずあります。

テレビなどで介護職の特集をされる時
必ずと言っていいほど飛び出すワードに
「やりがい」があります。

以前、介護施設での画期的なケアの取材をされていた
中での、職員さんへのインタビューの中で
その職員さんが

「確かに給与は低いかも知れないが
やりがいを感じる仕事だ」
みたいな
締め方をされていました。

個人的には、すこし悲しくなりました。

だって、見る人がみれば
「やりがいがあっても、給与は低い仕事なのか」
って、思われてしまいかねません。

人が仕事をしなければならない理由は
「やりがい」ではなく「お金」です。

「やりがい」「価値観」ですが
「お金」「価値」です。

仕事の介護は「やりがい」をやたらと
強調される印象を、自分は持っていますが

翻せば「給与の面」
では魅力が薄いんだろうなと
見る人には、思われるような気がしています。

「やりがい推し」は、伝え方としては
適切ではないのかな?と勝手に悩んでいます。

結局は
「仕事のどこを、切り取って伝えるか」
重要なのかなとも思っています。

【すべらない話】

お笑い番組の「すべらない話」って
ご存知ですか?

ダウンタウンの松本さんを中心に
人気のお笑い芸人の皆さんが集まって

自分が思う「鉄板の面白い話」
披露してゆく、という番組なのですが

例えば、あの番組で披露されたお話の中で
千原ジュニアさんの「タートルトーク」があります。

東京ディズニーシーに行かれた
ジュニアさん達が、アトラクションのひとつ
「ウミガメのクラッシュ」の中で
体験された出来事を、お話しているのですが

仮にぼくが、ジュニアさんと全く同じ体験をしたとして
それを誰かに「面白い話」として披露しても
「確実にウケない」と断言出来ます。

ぼくとジュニアさんでは
「体験した出来事のどこをピックして
どこが必要ないか、どこを膨らませるか」

の技術、知識、感覚、経験に
天地の差があるからです。

芸人さんの話が面白く感じるのは
「芸人さんの毎日が特別だから」ではありません


芸人さんは「面白いとはなにか」を常に考えていて
起こる出来事すべてにアンテナを立てています。

だから、人と同じ出来事を経験しても
「聞く人が魅力を感じやすいような伝え方」
自然と、出来るようになるのだと考えます。

「芸人」という職業が、ずっと人気なのは
メディアに露出した時、圧倒的な話術で
役割を十二分に全うしているから
なのだろうなと思います。

今年、残念ながら解散されましたが
「ザブングル」というお笑い芸人が、以前
闇営業問題のゴタゴタで謹慎されていた時期に
介護施設でボランティア活動をされていました。


この記事、好きです。

介護を不祥事の禊に使うなとか
否定的な見解の方もいらっしゃいます。

ただ、自分の考えとしては、こんな風に
有名で、発信力のある方が
どんどん仕事の介護を経験して
実際を伝えてもらった方が

ネガティブなイメージが先行しやすい
仕事には、実際を正しく伝えるという意味で
結果的にプラスになるのではないかな

考えています。

人気の職業には
「自分の職業を魅力的に伝えることの出来る人」
確実に存在しています。

それは、その方にとって「意識しての行動」では
ないのかも知れませんが「人気の職業」には
「象徴」のような存在が、確実にいます。

ネガティブなイメージが先行しやすい仕事には
芸人でいう「ダウンタウン」のような存在が
必要なのかも知れませんね。

【介護職、実際は?】

「イメージの上げ方」は、なんとなく
目途はつきましたが「実際はどうなの?」
というところですよね。

「介護職、未経験の方が仕事を始めて
果たしてどうなのか?」
ですが

ぼくの印象を正直に書きますと
「仕事量に対しての金銭的な対価は
まだまだ低いと言わざるを得ない」
ですが

「お客様からの感謝がダイレクトに伝わるので
その部分は、直接消費者と関われない製造業などと
比較すると、意欲に変わりやすい」

「トライ&エラーの繰り返しに
自分なりの意味、意義を見出せるかが重要」

といったところでしょうか。

さらに個人的な感想を書かせてもらえれば
「継続していければ、相手が何を求めているのかを
自然と考えられるようになる」
という
メリットがあります。

介護も、お店の店員さんも、同じ接客業ですが
一人のお客様と関わる密度や時間が
圧倒的に深く、長いのが介護の特徴です。

※優劣の話ではありません。念のため・・。

仮にお店で、一人のお客様にNGを出されても
影響はそこまでないのかも知れませんが

一人のお客様に対してのコストをかける介護では
その影響は比較して、大きなものだといえます。

自分は店舗接客も、アルバイトで経験しましたが
とても難しくて、叱責されてばかりでした。
ただその経験は、介護の接客で活きています。

例えば、ぼくが実際に介護現場で経験した事を
「ネガティブ寄り」に切り取らせてもらいますと

・レビー小体型認知症の利用者様に、
泥棒と勘違いされ首を絞められました・・。

・更衣介助中に、肩を思いっきり噛まれました。
出血して、痣が残りました・・。

・夜間、不眠で立腹されている利用者様に
いきなりビンタされ「ひとごろし!」と叫ばれました。

現場が長いので、こういう体験も、少しはしています。

未経験の方が、そこだけ伝えられたら
「なんて怖い世界なんだ、介護って・・」
捉えられても、不思議ではありませんよね💦

でも実際は、続きがあるんです。

・レビー小体型認知症の利用者様には、後で
「本当に、申し訳ないことをした」と謝られました。

ぼくは「あなたの人柄は、分かっているつもりですので
どうか、お気になさらないで下さい」と伝えました。

その方は、自分がした行動をとても悔いておられ
苦しみが伝わる分、その事の方が辛かったです。

・肩を噛まれた時は、確かに痛みはありましたが
制服の上からですし、出血も微々たるものでした。
痣もすぐ治りました笑

自分の技術が未熟で、相手に抵抗感を
与えてしまった事で起こった出来事だと
認識しています。

・そしてビンタの件も、夜間せん妄の症状が
見受けられる方に、不用意に声掛けを
した事が、起因となります。
(ぼくが戦時中の兵隊に見えたようです)


物事は「一面的」に捉えると、どうしても
「極端」に寄りますが、本来すべては「多面的」です。

認知症の方の周辺症状も、その方の「生活歴」
「嗜好」を知り、行動を見極めた上で
「人としての礼節、接遇」を心がければ

「本来、その方が積み上げてこられた人格」
次第に顔を覗かせるようになります。

そうなればもう、後は「どうすれば、この環境を
心地良いと思って下さるのか」
に注力すれば
良いだけかなと思います。

ただ、これで終わると「キレイゴト」
なるので、さらに伝えます。

ネットの書き込みでよくある
「現場の対応次第で、周辺症状は治まる」というのは
半分まゆつばだと思っています💦

職員さんが、どれほど完璧に対応しても
礼節を尽くし、接遇を心掛けたとしても
周辺症状が治まらない方も、いらっしゃいます。

だって職員さんも、利用者様も「人間」ですもの。

なぜか認知症の周辺症状の対応の時だけ
職員さんを万能戦士のように扱うんですよね💦

虐待や、暴力は許されませんが
手を上げたくなる気持ちは、とてもよく分かります。

あと、お薬を服薬させることを極端に嫌う現場や
管理職さんも、たまにいらっしゃいます。

メマリーやドネペジルなどの認知症のお薬が
処方された時、過剰な意見を他職種の方にぶつけて
連携を乱してしまったり。

価値観は人それぞれなので、難しいですね。

個人的には「環境」で認知症は大部分
マシになりますが、そうならない方も
いらっしゃいます。

そんな時「お薬」という選択肢を試してみても
いいんじゃないかなと、考えます。
そのために「お薬」は存在するのですから。

解決の手段を、特定の何かに盲信したりせず
知識をつけて、「自分がどうか」ではなく
「相手がどうか」を主体に考えたい
ものですね。

【まとめ】

今回は「楽しい仕事ってあるのかな?」
という内容で、書かせて頂きました。

冒頭に書かせて頂いた結論の通り
「楽しい仕事なんてなく、その仕事に
携わる方の伝え方で、イメージの大半は決まる」

ということだと、今は考えています。

「仕事」は日々楽しい事、辛い事、両方ありますが
折角自分で選んだのですから

「自分の仕事を誰かに魅力的に伝えたい」
思って欲しくて、書きました。

余計なお世話ですね、すみません。

対外的にどうか、だけではなく
「楽しくない仕事を、どうすれば楽しめるのか」
という考え方も、大事なのかなと思います。

ほんと、話術スキルが高い人は憧れます。

ことばでした。
読んで下さって、ありがとうございました。

れってることは
こんにちは、ことばです( *´艸`)

今回のテーマは「レッテルを貼ろうとする意識が
僕らに与える悪影響って?」
みたいな内容です。

他人にはもちろん、自分自身に対しても
知らず知らずのうちに貼ってしまう「レッテル」

偏見を持たず、フラットに生きていくためには
どういう考えかたをするべきか、
書いていきたいと思っています。

よろしくお願い致します。


【レッテルの「意味」】

「レッテル」は、オランダ語「letter」に由来する言葉で
「文字」「手紙」「値札」「ラベル」という意味を指します。

商品、品物に貼って値段を表示する「値札」を指しても
意味としては、伝わりますね。

この「レッテル」を人物に貼ると
「物事についての主観的な評価を示す言葉」
意味が変わります。

商品に貼るレッテル(値札)は
例えば「これは1980円です」とお客さんに
その商品の価値を提示する役割のものですが

人物に貼る「レッテル」には
どういった役割や効果があるのでしょうか。

少し、自分の話をさせて下さいね。

【レッテルを「貼られる」】

ぼくは一時期、高校の先輩とルームシェアをしていました。
この先輩が、いわゆる「不良」と、他の学生や先生方に
言われるような人でした。

自分は中学の頃に登校拒否になり、
高校は行きたくなかった挙句に定時制を選択した
(というより、親に道を示してもらった)のですが

とある切っ掛けで、その先輩と
交流を持つようになりました。

高校の頃は、学年も違うのでそこまで一緒に
いたわけではなかったのですが
たまに先輩と一緒にいると
後日先生に自分だけ呼び出され

「ことば、〇〇に脅されているのか?」
「〇〇に何か言われたのか?」

みたいに、すごく心配されました。

自分は典型の「いじめっこの的になりそうな
弱々しい生徒」
だったので
構図としては「不良に絡まれる生徒」のように
映ったと思うのですが

自分的には先生の仰る先輩と、
自分が印象として受けた先輩のイメージが
重ならないため、とても変な感じでした。

先輩の内面を知るようになるのは、ずっと後に
なってからですが、当時の自分の印象としては

「この人、そこまで悪い人なのかな?」
「不良って言われてるけど、そうでもないような・・」


というもので、確かに見た目は金髪でしたし
いつも誰かを威圧するような感じでした。
態度や口調は、先生方には乱暴だったように思います。

そういった印象を総合すると「不良」と呼ばれても
仕方ないという感じでしたが「悪い人」という感覚は
自分の中にはありませんでした。


そんな先輩に、キレられた事があります。

ぼくは自己評価の低い人間で、
とにかく自信がなかったため

謙遜と保険の意味合いで「自分なんか」とか
「どうせ自分なんて」みたいなワードを
会話の中で多用していました。

ある日先輩に「お前、俺をバカにしてんのか?」
言われました。

前後の流れを考えても、自分が先輩を
不快にさせた理由が全く分からず
「え?え?」とおろおろしていると、先輩が

「お前はよく自分を卑下するけど、それはお前を
大事に思っている奴を、一緒に下げているのと同じだ。
お前にとって、俺はその程度の存在だと言っているのと
同じだ。お前にとって、俺はその程度なのか?」

みたいな事を言われました。

当時は正直、意味がよく理解できず
「え・・ご、ごめんなさい」みたいに
謝ることしかできませんでしたし

「自分なんかって言葉は、先輩の機嫌を損ねるから
言わない方がいいのか・・」

くらいにしか、思いませんでした。

いま考えても、本当にありがたい言葉をかけて
頂いていたなぁ
と思いますし、当時から
こういう考え方ができた先輩って、きっと

色々な経験をされたが故に傷ついていたのだと思いますし
「不良」のレッテルを貼られたが故に失った、
様々な形のないものに対して
苦悩していたのかな、と思います。

もちろんレッテルが先に貼られたわけではなく
先輩の行動や言動によって「不良」と呼ばれるように
なったわけですから、自業自得な面の方が
大きい
とは思います。

ですが、自分にはあんな考え方
到底思い至りません
し、今でも出来ません。
「不良」とレッテルを貼られた先輩は

その内面を、その繊細な感覚を
「レッテル」によって、多くの人に伝える機会を
失ってしまった
といえるのではないでしょうか。

【レッテルを「剥がす」】

レッテルという言葉を人に対して使う時
そこには「偏見」という価値観が含まれている
場合が多いです。

「偏見」の意味ですが
「根拠のない、感情や主観により形成された思考」
一面的な物の見方や表現に対しても使用されます。

例えば、ぼくは学生の頃に自分の事を
「いじめっこの的になりそうな弱い人間」だと
思っていました。

「弱い」という意味の定義も特に定めず
見た目や内面から「弱い」と勝手に思い込み

結果、どんどん引っ込み思案になり
話せなくなり・・と良くない循環の偏見に
囚われていました。

これは、誰のせいでもない
自分で自分に「レッテル」を貼った結果です。

自分には「自分が強いと定義できる根拠」もなければ、
また同様に「弱いと定義できる根拠」もありませんでした。

子供の頃に自分で貼った「自信喪失レッテル」が
未だに剥がせずに、今に至ります。
「偏った見方」をすることは、相手にも自分にも
良い結果を与えません。


人に貼るレッテルの正体は
「主観による思い込み」です。
レッテルにより、人は苦しみ、悩むのですが

自分で貼ったレッテルや、他人から貼られたレッテルを
「剥がす」ことって、出来るのでしょうか?

結論から書きますと
レッテルを剥がす事は、ほとんど無理に近いです。

ですが「上書き」することは出来ます。

【レッテルを「上書き」する】

例えば、自分で自分に貼ったマイナスなレッテルを
剥がそうと考えた場合。

時間が経てば経つほど「レッテル」と
「自分の認識」が同化していきますので
剥がすことが困難になっていきます。


ですので「上書きする」方法が
一番理想的かなと考えています。

学生の頃のぼくで言えば
「根暗で頭も要領も悪く、運動神経も悪い。
そして口下手の自分は、だれからも好かれないだろう」
「女の子ともろくに話せない。モテた経験がない。
友達もいない。こんな人間のどこに価値があるのだろう」

みたいな事を、多感な時期に考えていました。

ぼくは、この「思い込み」は、
事実認識を積み重ねた結果の上での、確たる根拠だと
当時は思っていましたが、実際はそうではなく

ただ何もしなかった、行動していなかっただけの
「積み重ねの中の主観」なだけだったなと
改めて思っています。

「頭が悪い」のは「勉強をろくにしていないから」

「要領が悪い」のは「経験を積んでいないから」

「人と話せない」のは「考えて喋っていなかったから」

「モテない」のは「自分の事ばかり考えていたから」


なんというか「自分のことなのに、他人のせい」
のような意識で、それにも気づかずに


ただレッテルの中に自分の可能性を押し込めて
傷つかないように、傷ついてもダメージを
最小限に出来るように、落差を感じないように
守っていた
ような感覚です。

自分の場合は、マイナスのレッテルを
貼り続けてしまったせいで、
もうこれを完全に剥がす事が出来なくなりました。

それでも、上書きを重ねた結果
元々のレッテルの文字は、薄くなりました。

自分で自分にレッテルを貼ることほど
悲しくて、後悔することはありません。

だから、剥がすというよりも
「レッテルの上書き」をする事をお勧めします。

まず、もしご自分を卑下してしまうのであれば
「自分のどこが、どういう風に嫌か」を
言葉に出来るくらいには、消化してみて下さい。

抽象的な話で申し訳ないのですが
自分の「嫌」な部分を抽出して
どうやったら「嫌」と折り合いがつくのか
考えるような感じです。

例えば
「なにをやっても続かないのが嫌」であれば
「意志が弱い」とか「継続できない」自分を自分で
よく思っていないという事です。

自分に「継続出来ない」レッテルを貼っている
この状態を改善するには

「継続できることを発見する」か
「そこは切り捨てて、新たな長所を発見する」か

だと思います。

そもそも人の意志は、とても揺らぎやすいので
自分の意志の力だけで物事を継続し続けることは
とても、とても困難です。

意志関係なく「気づいたら勝手に続いていた」ような
状態に持っていくことが重要です。

ぼくでしたら、ソシャゲのグランブルーファンタジーは
数あるソシャゲをしてきた中でも、唯一続いています。

自分の中で「グラブルで遊ぼう」とか
そんな感覚はもうなくて、起床後に必ずPCを起動して
グラブルの日課を消化しながらYouTubeを見るのが
ルーティーンになっています。

また、自宅から職場までの通勤時間は
音声コンテンツを聞き、ブログのネタを考えたりなど
インプットの時間に充てています。

これらは「継続しようという意志の力」は関係なく
「そういう仕組み」というだけです。


個人の意志の強さは、物事を継続できるかどうかに
あまり関係なく「いかに仕組みを作るか」の方が
大事です。

ぼくもこのブログを早く「仕組み」化しなくては・・

こんな風に自分の中で「何かが継続できて」いれば
「継続できないレッテル」は、認識との齟齬が
生まれるため、少しずつ薄まります。

「物事を継続できる」プラスのレッテルを
自分に「上書き」する事が出来れば
マイナスのレッテルを自分に貼る癖、そのものが
なくなっていくと思います。

【まとめ】

今回は「レッテルを貼ろうとする意識が
与える悪影響」
について、書かせて頂きました。

人は、人に抱いた印象を簡単に言葉にします。

その中には、相手の背景を想像せず
身体的な特徴を言葉で簡単に揶揄したり

プロの芸人さんのやり取りを、そのまま
コミュニティに持ち込んで、表面だけをなぞるような
行為で、結果として相手に
マイナスなレッテルを貼ってしまったり

レッテルは、貼るのは簡単ですが
剥がす事はとても難しく、時間のかかる作業です。


マイナスな言葉が、人に与える影響力は
絶大で、相手の意図と自分の姿は常に見えないため
そんなとき、言葉の影響力が際立ちます。

凶器と薬箱を常に持ち歩いている状態です。

自分の言葉を相手にも
そして自分自身に対しても凶器とせず
どうすれば、お薬として使用できるのか


少しでも、あなたが考えて下されば
嬉しく思います( *´艸`)

レッテルが抱える問題は
とてもとても、根深いものですが
あなたにとって、優しい世界が
訪れるよう、願っています。

・・全然まとまってないな、すみません💦

ことばでした。
読んで下さって、ありがとうございました。

ぬけたことは
こんにちは、ことばです( *´艸`)

今回のテーマは
「がんばらなくてもいいけれど・・」です。

あなたは「がんばれ」って
言ったり、言われたりしたことありますか?

がんばっている人、無理しているなと感じる人に
清涼剤的に、かけてあげたくなる言葉かもしれません。

ただ、この言葉、個人的には使うとき
または使われるとき
ちょっと気を付けないといけないかも?
感じています。

その辺の機微も含めたお話ができたらいいなと思います。
よろしくお願いします。




【「がんばれ」は重い言葉?】


「がんばれ!あなたならできる!」
「ここまでやってきたんだろう?もっとがんばれよ」
「お仕事がんばってね!」


自分が相手に期待しているときや
元気を出してもらうために
「がんばれ」と、人は伝えます。

この「がんばれ」という言葉を、例えば
「落ち込んでいる状態の人に対して、使用しない方がよい」
みたいな暗黙のマナー、ご存じですか?

自分は、テレビとかの情報を見聞きして
なんとなくですが、伝わっています。

「そうなんだ~」程度の知識と認識ですが
それ以降は、誰かに個人的なメールをする時は
なんとなく「がんばって」という文言は使用していません。

ぼくは根は暗いですが、相手とやり取りする時は
お互いに気持ち良くやりとり出来ればいいなと
思っていますし

文面だけでは、相手の状態を推し量るのが
難しい事もありますので

「がんばれ」という文言の代わりとして
「無視しないで下さいね」みたいな言葉を
使用するようになりました。

「がんばれ」という言葉、人に寄っては
とても重く捉えられます。


自分はただ励ましているだけのつもりでも
相手にはプレッシャーにしか感じてもらえなかったり
「もう十分がんばっているのに
まだがんばらないといけないの?」
みたいに

言葉をプラスに考えられない時
「がんばれ」がその代名詞のように
なってしまいます。


あなたも、きっと同じような経験をされていると
思います。誰かに「がんばれ」と
言ったり言われたりする中で

自分の意図が上手く伝わらないモヤモヤした葛藤を
抱えておられるのではないでしょうか。

どんな言葉も「重く捉える」のは相手であり
自分との関係性、立場、信頼で変化するものです。

「相手を励ますことも出来ないのかよ」と
憤るよりも、個人的には

自分が相手と良好な関係を築けていれば
たとえ自分が「がんばれ」と言ったとしても
相手は適切に、受け止めてくれるように思いますし

関係性が出来ていれば、相手は自分の言葉の意味を
汲み取ろうとしてくれるので
お互いに誤解で嫌な思いをする状況も
減るのかも知れませんね。

【捉え方の温度と感覚】

人は、言葉を様々な要素と絡めて捉えます。

京都のぶぶ漬けや
月が綺麗ですねの意味など
皮肉や照れ隠し、裏腹な感情からか

ひとつの言葉に沢山の要素、意味を
隠したり、持たせたりするのが
日本人の奥ゆかしさ、日本語の楽しさの
一つでもあるのですが

昨今のメディアに代表されるような
自分が子供の頃と比べての
やや過剰とも思えるような表現の規制は

SNSの普及によって発信する力を得た人々が
苦情、クレームをスポンサーの企業に
なりふり構わずにされるようになった事も
無関係ではないかなと思います。

ネットの普及する以前から
電話などでクレームを
入れていた視聴者さんはいらしたようですが

SNSは「個」ではなく「群」なので
そういった時代の波が、急速に
現代の価値観として、形作られたのでしょうね。

人が人に優しい世界は大好きですし
その形に近づいている過程なのであれば
受け入れるべきことなのですが

いま、この世界に生きて実感している感覚は
その理想に近づいているとは
感じがたいものではあります・・。

【言葉の限界】

ぼくは、介護の施設で働いています。

チームで認知症の施設利用者様の
お世話をする仕事なのですが

身体介助という業務がありまして
例えば、おひとりでは排泄が困難な方の
サポートとして、車椅子で
お手洗いまでお連れして

ご自分で立位(立った状態のままの姿勢)
が取れない方に、体を抱えて支え
便座に移って頂くという動作のサポートを
しています。

排泄介助は1日に複数回、実施します。
トイレが1日1回で済む方はいないので
当然ですよね。

例えば、利用者様が大柄な男性の場合
女性の職員さんだと、何度も業務をこなすのが
肉体的に、大変な作業であるのは
お分かりになるかと思います。

自分は管理者をさせてもらっているので
職員さんの業務の相談などを
よく受けるのですが

「管理者、私では〇〇さんの介助は無理です!」
「なんとかして下さい!」


のような相談を受ける場合もあります。

あなたなら、こういう時に
なんと返答しますか?

こういう相談、割りと日常茶飯事なのですが
返答はとても難しいんです💦

例えばぼくが
「いや、仕事なんですから
やってもらわないと困るんです」
とか

「ぼくは出来ますよ?
〇〇さんが出来ないのは、単純に
技術や努力が足りないんじゃないですか?」


みたいな言葉をかけたら、どうなると
思われますか?

多分、ひと昔前でしたら
こういう返答でも、さして問題に
ならなかったと思うんです。

今、こんなことを職員さんに
言おうものなら
「管理者にこんなひどい事を言われた!」
他の職員さんに言いふらされますし

その程度ならまだいいのですが
話を膨らませて本社や外部に
相談される
可能性がとても高いです。

現代の風潮は、被害者の被害者意識を
より増大させて、加害者を追い詰めてしまう

構造を孕んでいるように感じています。

物事の大小はあまり重視されずに
構図だけを見て、加害の側をより批判する
体制といいますか・・。

すみません、いつも話が長くて💦
僕は職員さんの相談に対しては

まず「この人が何を問題にしているのか」
「根本を探り、解決できるかどうか」
意識するようにしています。

「介助が無理!」と仰る職員さんには
「そうなんですか、確かに〇〇さんの介助は
大変ですよね。他の職員さんも大変だと
言っていました」


みたいに、初手で想いに「共感」します。
この時点でトーンダウンされる方も
いらっしゃいます。
ここで「相談」か「愚痴」かを見極めます。

愚痴でしたら、一通り想いを聞かせて頂いたら
「聞いてくれて、ありがとうございます」と
スッキリして、また仕事をして下さいます。

男性の自分からしたら「聞くだけでいいの?」と
拍子抜けする事もありますが
そこは男女の違いなのかも知れません( *´艸`)

相談の場合は、職員さんが感じている
「問題はどこか」を質問しながら考えます。

無理だと思う理由は
「利用者様との体格差?」
「認知症の方とのコミュニケーション?」
「自分の体調?腰を痛めているの?」など

仕事でしている事を「無理」と
ひと言で片づけられると、
自分の本心としては「ん?」と
構えてしまうところがあるのですが

言葉に惑わされず、分解して
問題を突き詰めるように、心掛けています。

それでですね、ごめんなさい💦
ここからが本題なのですが

「がんばらなくても大丈夫ですよ」という
言葉を、職員さんにかけさせて
頂いた事があるんです。

それは、相談された中で
「私はこんなに仕事をがんばっている」的な
ことを言われた時、少し肩の力を抜いてもらおうと
意図を込めて言ったつもりなのですが

その職員さんが言葉を割と額面通りに
受け取ってしまったみたいで

苦手な利用者様の業務を避けたりなど
怠慢ではないのですが、自分のやりやすいように
仕事をするようになってしまいました。

「がんばれ」と「がんばらなくてもいい」は
言葉の意味的には真逆なのに
相手に誤解を生んでしまいやすい言葉なのですね。


配慮が足らなかったなと反省しました。

【弱さを自覚するという強さ】

他人に「がんばれ」と言われても
がんばる必要はありませんし
他人の「がんばれ」には、深い意味は
ありません。

それと同様に「がんばらなくてもいい」を
受け入れすぎる事も、少し難点なのかなと思います。

恐らく「がんばれ」を重く感じる方は
「がんばらなくてもいい」を必要以上に
受け入れてしまいがち
かと考えます。

これは介護の仕事の話ですが
がんばらない職員さんが、
手のかかる利用者様の介助を
避け続けたら、どうなると思いますか?

がんばらない職員さんの仕事のカバーは
他の職員さんがします。
「がんばらない人」が多ければ多いほど
他の人を「がんばらせてしまう」
んです。

この状態は職場で色々な問題を生んでしまいます。
「なんでこの職員さんは
〇〇さんの介助に入らないの?」
「なんで私ばかり、この人の介助をさせるの?」

とか。

信頼関係が崩れると、施設全体でケアの質が
下がりますし、結果的にがんばらない人も
損をしてしまうと思います。

問題は、問題に感じる人がいて
初めて問題になります。


行動の責任は最終的に自分がとるしか
ありませんので
人がかけて下さる言葉に
必要以上に重きを置かない
ようにしたいですね。

個人的な経験から書かせて頂くと
他人に自分の弱さを吐き出すことは

「信頼」と引き換えにしているなと
考えています。

人と仲良くなると
個人的な悩みや愚痴を聞いてもらったり
すると思いますが

その頻度が多くなったり
あまりにも一方的になると

次第に、友達から連絡がなくなったり
距離を置かれたりしませんか?

あれは、今まで築いてきた「信頼の貯金」を
自分の「愚痴」や「悩み」を聞いてもらう
対価として、支払っているもので

弱さを自覚して、自分の中である程度消化しないと
次第に、それを発揮出来る状況や場所が
狭まっていくのではないかな
と考えています。

「弱い自分を認める」ということは
そのまま「強さ」に繋がるということ
なのかも知れませんね。

【まとめ】

今回は「別にがんばらなくてもいいけれど
それは、がんばる他人あっての考え方かも」


という内容で、書かせて頂きました。

現代はSNSの普及により、
誰でも気軽に発信できる
世の中になった功罪として

被害者の被害者意識は増大し
加害者に対しての排斥は日を追うごとに
高まるような風潮です。

優しい世界の過程の中での
現在の状態であれと願うのですが
あまりそういう印象は感じ取れない中

「がんばれ」「がんばらなくてもいい」
それぞれの他人からの言葉を

あまり重く受け止めすぎないように
過ごしていきたいものですね。

自分の人生の責任は、自分しかとれません。

「あの時、あいつががんばれなんて
言わなければ・・!!」
なんて
今際の際に思う人生、やりきれないです。

「がんばらなくてもいい」
この言葉は、とても優しいものですが

「もうがんばらない」と決めた
自分を支えるのは
「いまもがんばっている」
他の誰かの存在なのかも知れません。


他人に優しく、甘く接するだけで
生きていけたら、本当に楽で
幸せなんですけどね( *´艸`)

あなたも、無理なさらないで下さいね。

以上、ことばという他人のことばでしたっ
読んでくださってありがとうございました。


おこりことは
こんにちは、ことばです( *´艸`)

更新がとっても滞ってしまってごめんなさい💦
世の中のエンタメに時間を奪われ続けていました。

エンタメのせいではなく、自分のせいです。

今回のテーマですが
「どういう考え方をすれば、職場で他人に怒らずに
色々と、対応する事が出来るか」
です。

お仕事をされている皆様におかれましては
日々、職場でのストレスと向き合い、それでも果敢に
対処をされ続けておられるのではないかなと思います。

本当に、素晴らしいです(*´v`)

でも、例えば自分が上司で
指示をした動きを職員さんがしてくれない時や
頼んでいた仕事の進捗の報告が特にない時

「どうなっているんだ?」
みたいに、なんだかイライラしてきますよね。

そんな時、そのまま感情的に相手に気持ちを
ぶつけてしまうと、今の世の中
「あの上司にパワハラされた・・」

自分に全くそんなつもりがなくても
SNSに書かれたり、自分よりさらに上の役職に訴えられたり
とにかく大きな問題になる事が多いです。

もういちど書きますが
「自分に全くそんなつもりがなくても」です。

職場で感情的になる事はリスクでしかない
昨今ですが、自分の性格、考え方はそうそう
変えられません。

それが分かっていたとしても
このリスク管理は早めにしておいた方が
絶対に良いです( ;∀;)

多分この風潮は長く続きますし
今後もますます増大すると思います。

自分は介護施設で働いていますが
利用者様と接する時「態度や声掛け」
気を配っています。

それと同等、いえそれ以上に
「職員さんと接する時の、自分自身の態度や声掛け」
にも、気を配るべきだなと思っています。

詳細は書けませんが
自分も、最近大きな失敗をしたばかりです💦

この失敗談は、またどこかのタイミングで
ブログで書かせて頂く予定です。

それでは、ことばが考える仕事での怒りの対策や
考え方を、文章にさせて頂きますね。


【怒りの原因と対策】

仕事で人が怒りを感じる原因は
大まかに二つあります。

①(自分は)聞いていなかった

②相手の仕事の考え方、価値観が理解出来ない


それぞれ、細かく掘り下げていきますね。

①自分は聞いていなかったについてですが
例えば、自分の知らないところで勝手に物事が決まったり
変更されたりすることについて

「自分は聞いてない!」
「勝手に変更して、どういうつもりだ!」

感情的になってしまう方がおられます。

役職を持たれている方や、職場で年数が経過する程
自分は知らされていない事に関して
プライドが刺激されるため、怒りに転化してしまいやすい
ように思います。

それは責任感の表れであり、当然の事なのですが
感情的にならないようにする考え方って、あるのでしょうか?

個人的には
「なぜ自分を抜いて勝手に進めたんだ!」と
他人を主体に考えるよりも

「なぜ自分には物事が知らされなかったのか」と
自分を主体にして考えた方が
怒りには結び付きづらいのかなと思います。


自分に物事が知らされなかった理由として

「自分は普段どういう態度で人と接しているのか」

「その物事に、自分はどの程度影響していたのか」

「発信者と、適切に信頼関係が築けていたのか」を


自分で客観的に評価して、それでも
自分が知らないのは業務上適切ではなかったと
考えて、初めて指摘をするべきかなと思います。

会社は、組織で共通の目的を達成するための集団ですので
個人がすべての流れを把握する事は不可能です。

「自分が知らなくても、滞りなく物事が進み
終わるのであればそれで良い」
と考える事が出来たのなら
無用に感情を動かさなくて、よくなりますよね。

また自分が「相談しづらい人」になっていないかは
意識しておいた方がいいかなと
思います。

部下は、上司の行動をよく見ています。

表情、姿勢、仕草、言葉の数、選択、抑揚などが
複雑に絡んで、相手の印象として
「話かけやすい、話しかけにくい」雰囲気を形作ります。

「仕事なんだから、そんなの関係なく報告してよ」
思われますよね?

難しい事に、それが通用しなくなってきているのが
今の時代の流れなのかも知れません💦

「自分は聞いていないぞ!」と憤る前に
「自分が相手にどういった情報を与えているか」は
振りかえってみても、損はしないかなと考えています。



②の相手の考え方が理解出来ないについてですが
人は「自分が理解出来ないもの」に出会うと
「怒り」を感じてしまいやすいです。

これは、状態としては
「理解出来ない=その物事に対しての知識不足」
という事だと考えています。

例えば指導の時、何回言っても同じミスをする新人さんに
「何回言えば分かるんだ!」と感情的になってしまう場合。

どちらに非があるかという問題はさておき
「なぜ怒りを感じたか」の理由として
「なんで同じミスをするのか、理解出来ない」という
感じ方をされるかと思います。

ですが「何回も指摘している」事実は
自分にも当てはまる事です。

指摘する時に
「前も同じことを言ったよね?」とか
「これ〇回目なんだけど」みたいな言葉を
使った経験は、ありませんか?僕はあります。

こういう言葉は往々にして、相手を焦らせて
プレッシャーを与えます。

仕事でプレッシャーを与えられると思考能力が
極端に低下して、何も考えられなくなる方もおられます。

指導する側は「何度も機会があった」のであれば
その新人さんの「情報」も得ているはずです。

その情報が「知識」です。

新人さんの性格や考え方は、指導の中で知識として
何も知らなかった時よりも高まります。

それを「どうやって指導するべきか」の「対策」に
変えて、活かすようにすれば良いのかなと思います。


例えば「このミスは、仕事の優先順位が分からない
せいで発生したのかも。まずは優先順位を徹底して
覚えてもらうべきかな」
とか

「時間にルーズな面があるから、仕事における
時間の重要さをまずは教えるべきかな」
のように

新人さんの事が何もわからなかった時よりも
情報として得た新人さんの性格や性質を知識として得た
段階の方が、相手への「理解出来ない」が薄まっているため

怒りを感じる要素も薄まるのかなと考えます。

指導で重要なのは「回数」ではなく「質」です。

相手が仕事が出来る、出来ないよりも
自分が相手に対して効果的な指導が出来ているかを
基準にしていけたら良いですね。


【いま、気を付けるべきこと】

自分から他人に向けての行動や言動には
とても鈍感なのが、人間という生き物です。


「そんなつもりはなかった」という言葉を
加害の立場になってしまった方は、使う印象があります。

あれは本当にそう思っていたのだと感じます。

自分の「そんなつもりはない」は自分では許すのに
相手の「そんなつもりはない」は許さないのも
「自分が他人に与える影響に鈍感」だからです。


介護施設でたびたび報道される
施設利用者様への虐待も、同じ理由です。

時に苛烈な、相手の周辺症状に対して
鈍感な自分が、相手への影響を考えずに対応すれば
「虐待」と判断されてしまうケースは高まります。

昨今、議論が絶えない「〇〇ハラスメント」の問題も
「そんなつもりがない」自分が起こした言動、行動を
相手が許さなかったからこそ、表面化しています。

相手ではなく、自分の言動、行動にこそ
細心の注意を向けないと、とにかくリスクだけが
高まるのが、今の時代です。

そのリスクへの対処法というか
考え方ってあるのでしょうか?

ことばが考える4つの「リスクへの対策」
お伝えさせて頂きますね。

【リスクへの対処法】

加害の立場になってしまうリスクは
社会に関わる皆様は、誰しもが抱えるものです。

そのリスクを少しでも減らすための「考え方」を
まとめました。以下の4つです。

①知識をつける
②他人の課題にまで踏み込まない
③「正論」と「自分が正論を言う正しさ」は別
④自分の影響力を正しく把握する


それぞれ、細かく掘り下げていきますね。

①知識をつける
先述させて頂いたように「人への怒り」の理由の大半は
「自分の知識不足で、その物事の解決法が分からない」
というものです。

例えば、自分が新しい仕事を任された時に
特に引継ぎをされずに前任者が退職されたとします。

「あの人、何も教えてくれなかった!」
その前任者に対して怒りを覚えますよね。

ですが、予め仕事の段取りや、何をすればよいのかを
把握した状態であれば、その怒りは和らぐと思います。

「あの人、何も教えてくれなかったけど
大体分かるからいいか」

くらいの温度感に、落ち着くのではないでしょうか。

前任者の行動は変わらないのに
自分の感情は変化していますね。

この理由は「自分に対応出来る知識があるかどうか」です。

翻して考えれば「知識をつければ、他人に怒りを抱く可能性を
減らす事ができる」ということです。


②の他人の課題にまで踏み込まないですが

それでも、責任感の強い方であれば
「前任者がちゃんと引継ぎをしないのは、仕事として
間違っているのではないか」

「引継ぎをしてくれていれば、もっと理解が出来たのに!」

みたいな理由で、怒りを感じてしまう方も
少なくないと思います。

心情はとても理解出来るつもりですが
考え方として、この怒りは
「あなたが感じる必要のないもの」です。

細かく書きますと、この前任者は
この時だけではなく、常にこういう仕事を
されていると、推測が出来ます。

相手に必要な情報を与えないとか
説明を面倒くさがるとか
伝達の意識がそもそも薄いとか・・。

責任感の強い方は、こういう仕事の価値観の人と
ウマが合わない事が多いと思います。

ですがこれは「前任者の課題」であり
「あなたの課題」ではありません。


今後、前任者も他の職場で同様の仕事の仕方をされると
思いますが、こういう仕事を続けて、一番リスクがあるのは
結局この方、ご自身です。

あなたが感情的に、前任者に指摘をして
「パワハラだ!」なんて言われた日には
何がしたかったのか、分からなくなりますよね💦

自分の課題と他人の課題は
切り分けて考えたいものですね。


③「正論」と「自分が正論を言う事の正しさ」は別物
これは、過去にこのブログでも書かせて頂きましたが

「正論」には、罠が潜んでいます。
それは「正論なんだから絶対にこちらの言い分が正しい」と
錯覚してしまいやすいということです。


自分が正しいという想いが強ければ強いほど
感情が乗りやすいですし、理解してくれない相手に対して
強い口調になってしまいやすいです。

ですがたとえ正論だったとしても、相手に伝わらなければ
意味がありませんし、それこそこちらが感情的だったり
威圧的だったりすれば、相手には

「正論ばかり言う、嫌な人」
みたいに、マイナスな印象しか与える事が出来ません。

正論を言う時には
「いま、この場でこの正論を職員さんに伝える事は
行動として正しいのか」を考えて

伝える時の自分の言い方、口調、声量、態度などにも
気を回して欲しいなと思います。


④自分の影響力を、自分で把握するですが

あなたは会社の中で、どういった役割の方でしょうか?
基本的には役職が上がり、年数が経過するほど
その職場の中で、影響力は高まっていきます。

もちろん、どれほど役職があがろうが
勤続年数が経過しようが、人間的な価値は変わりません。

役職者は責任の重さと、会社に勤続された年数の信頼が
待遇に反映されているのですが、年功序列の考え方が
今もなお根強い日本では

役職を自分の価値そのものと錯覚した挙句
自分より下の人に対して、高圧的な言動、行動を
相手への敬意を払わずに使う方が、一部いらっしゃいます。

役職者や、立場が上の方が、自身の影響力を
正しく把握せずに使う言動ほど、誤解されやすいものはなく

それこそがリスクの温床だと感じています。

心理学で「自己覚知」という言葉があります。

意味としては「自分と対話し、自分の性質を
正しく把握する」
というものです。

傲慢にならずに卑下をせずに、正しくある事は
とても難しい事ですが、少しずつでも相手に与える
自分の影響は、どのくらいなのかを考える事が
出来れば、悲しい誤解は減らせるではないかなと思います。

【まとめ】


今回は「仕事で怒らないようにする考え方」みたいな
ことを、書かせて頂きました。

まとめますと、仕事で怒る原因は、主に
①自分は聞いていなかった
②相手の価値観が理解出来ない


の2つになるかなと思います。

そして、この現代のハラスメントへの対策として
加害の立場にならないように気を付けるための
考え方として

①知識をつける
②他人の課題に踏みこまない
③正論と、自分が正論を言う正しさは別
④自分の影響力を自分で把握する


以上の4点を意識するべきなのかなと
考えています。

現代は、お金を稼ぐ手段が増えましたね。

必ずしも会社に勤めて、年数をかけて信頼を得る事に
こだわらなくても、自分の能力を磨き、発信する事で
組織に所属せずとも、生きていくための金銭を得る事が
出来る時代です。

ですが、組織に所属するメリットはとても大きいものです。
だからこそ、今のうちに色々な知識や価値観に触れて
対応力を磨いていければいいなと思います。
(自分に言い聞かせています)

人は集団の中でこそ磨かれ、その経験で成長できます。

自分は聞いていなくても、相手の事が理解出来なくても
あなたがそれで感情的になる必要はないと思います。

あなたがそうであるように「人材」は会社にとって
かけがえのない「財産」です。


宝物同士で傷つけあうのではなく
相手をより輝かせるためには、どうしたら良いか
一緒に考えていけたらいいですね( *´艸`)


読んで下さって、ありがとうございました。

魔法は使えないことは
こんにちは、ことばです( *´艸`)

今回のテーマは「人は魔法が使えるのか?」
という内容です。

結論から伝えますと
「人は魔法が使えません」という事です。

・・何が伝えたいのか、これだけでは
さっぱり分かりませんね💦

よろしくお願いいたします( *´艸`)

【魔法なんかじゃない】

まず、自分の話をさせて下さい。

ぼくは現在、介護施設で管理者をさせて
頂いています。

立場的には役職を頂いていまして
請求業務や、シフトの管理などが仕事です。

どの業態も同じかと思いますが
介護施設も、人員が足りているとは言い難く

日によって、現場で勤務される職員さんが
足りない、なんて状況はザラにあります。

そんな時、ぼくも現場で勤務させて頂いています。
元々現場育ちなので、自分的には何の苦もありません。

現場の日は、他の職員さんと協力して
利用者様の介助(お世話)をさせて頂くのですが

たま~にぼくの介助を、職員さんがこう表現して
下さるんです。

「管理者さんの介助は、魔法みたいですね」

何故、こんな事を仰って下さるのかというと

例えば、職員さんが認知症の利用者様に対して
「〇〇さん、トイレに行きませんか?」と
声掛けをさせて頂いても、上手く誘導出来ない。


果てには「もう、ええって言ってるのに!
誰かきてー!!」みたいに、利用者様が立腹されて
目的が達成出来なかった。

そんな状況のあとでぼくが、トイレ誘導のお誘いをすると
拒否もなく、スッと立たれてお手洗いに行かれた。

そういう状況を何回か目撃されているので
「管理者さんすごい!魔法みたい!」という
表現で、対応を褒めて下さって頂いているのだと
考えています。

もちろん褒めて頂けて、とっても嬉しいですし
意欲も爆上がりします。

と同時に、心の中でこういう想いも
次第に芽生え始めました。

「魔法なんかじゃない。
努力で身に着けた技術なんです」

【ユマニチュード】

「ユマニチュード」という言葉を聞いたことは
ありますでしょうか?

介護の仕事をされている方でないと
聞き馴染みはないかなと思います。

「ユマニチュード」とは
フランス語で「人間らしさ」を意味する言葉です。


「人とは何か」の哲学的な思想を元にした
「認知症の方に効果的なケア」の考え方
実践的な技術の総称です。

この「ユマニチュード」はよく
「魔法のような認知症ケア」と称されます。

「ユマニチュードを実践して、認知症の方の
周辺症状(認知症を起因とした様々な行動、言動)が
収まった。マシになった」

「お薬をいくら飲ませても
環境を変えてもダメだったのに、凄い!」


みたいな事例が、いくつもあるみたいです。
テレビなどでも紹介される時「魔法のような」という
形容をされることがよくあります。

ここだけ聞くと「へぇ、ユマニチュードってすごいなあ
どんな方法なんだろう」
って思われますよね?

細かい説明は省かせて頂きますが
ユマニチュードを、簡単に説明すると

「目を合わせて、相手のお話をちゃんと聞いて
優しく触れて、穏やかに前向きな表現で返答して
相手の意思を尊重しながら、生活のお手伝いをする」

というものです。

あなたにお聞きしたいのですが

これ「魔法」だと感じますでしょうか?

ぼくもあなたも、基本的には
普段、人に対してしている事ですよね?

ごめんなさい「ユマニチュード」を否定している
わけではなくて、僕が疑問に思っているのは

「ユマニチュードを魔法と表現すること」です。

「認知症の方に、上記の対応をする事が
まず難しくて、それを実践出来るから魔法なのでは?」


そうですね。それこそ認知症の周辺症状と
いうものは、発現理由も人によって様々です。

「徘徊」の症状ひとつとっても

「帰る家を探している」
「死別した伴侶を探している」
「失った何かを探しているが思い出せない」
「理由はないが、なんとなく歩きたい」

みたいに「徘徊という行動」は同じでも
「理由」は皆様違います。

その中で、ユマニチュードを過不足なく
実践出来る人は「魔法」と称されても
違和感はないのかも知れませんが

そこは「魔法」ではなく

実践者が「いかにユマニチュードの効果を
最大化するか」を考え、試行錯誤を重ねて体得した

「技術」

と、表現すべきなのではないのかなと
思うのです。

【「魔法みたい」という表現の危うさ】

「魔法」という言葉の意味ですが
「人間の力ではなし得ない不思議な事を行う術」

創作の世界、主にファンタジーなどでは
「敵に対抗する手段」
「絶対不利な状況から抜け出す奇跡の一手」

のように、とても幅の広い解釈と用途で
使われていますよね。

飽くまで自分の感覚としてですが

実際に成果の出ていること、ものを
例える時「魔法みたい」という表現を使われる方って

「瞬間の結果にしか目を向けていない」ような
印象を受けるんです。

ぼくの介護の話で例えますと

自分はコミュ障で、人と積極的に関わったり
喋ったりすることは、得意ではありません。

介護の仕事は10年くらい続けていますが
「お誘いする声掛け」だけをとってみても、

利用者様の中には、けんもほろろに断られたり
いきなり立腹されたり、上手くいかないことも
多かったです。

それでも、何年も現場で働かせて頂くうちに
「この人は、一緒に歩きながら
声掛けすれば成功確率が高いな」とか

「このタイミングで声掛けしても厳しいな」とか

「この人には、このくらいのテンポ、声量で。
右耳が聞き取りやすいから、肩に手を置かせてもらって
このワードで声掛けしよう」みたいに

段々と「自分の特性」と「相手の特性」の
両方が、掴めてくるものです。


言ってしまえば「声掛けのマニュアル」が
確立出来ている状態なんです。

今の自分の職場環境は
立場的には管理者、そして利用者様は
オープンの頃から知っている、関係性の出来た方。

ぶっちゃけ毎日、完全に「ホーム試合」です。

成功した瞬間だけみたら「魔法みたい」と思うのは
不思議ではないのかも知れません。

ですが、職員さんが魔法のように見えているのは
「楽に仕事と向き合える環境を生み出すため
苦労して考え、実践し続けてきた成果」
であり

「努力を重ねた経験から得た、お客様と接する技術」
何者でもないのです。

【「〇〇だから、出来たんだろ」】

「キングコング」というお笑い芸人さんを
ご存知ですか?

現在、梶原さんはyoutuberで登録者200万人以上で
いまの、芸能人のyoutube参戦祭りのきっかけとなり

西野さんは絵本や個展、日本1位の
オンラインサロンを運営されている方として

コンビで突出した結果を残されている方々です。

ごめんなさい、数年前まで
あんまり好きな芸人さんではなかったんです💦

梶原さんがyouteberを始めた直後くらいから
芸人さんとの対談動画を目当てに見ていたのですが

その時の梶原さんの、聞き役としての上手さや
想いなどを拝見するたびに
「テレビの時の印象と違うなぁ」と思うようになり

結果的に良くも悪くも「テレビ」が
いかに印象を操作する力が強いかが分かりました。

西野さんも、同様です。
梶原さんきっかけで「毎週キングコング」という
毎週お二人で雑談するチャンネルも見ているのですが

その時の西野さんの、梶原さんに対しての
「聞く姿勢」の素晴らしさが好きで
「本当、イメージって当てにならないんだな」
偏見だらけの自分を恥じました。

ちょっと本題とズレました、ごめんなさい💦

例えば、キングコングのお二人の
「努力量」「作業量」を知らなかった
以前の僕のような人間からすれば

「キングコング梶原
Youtube登録者数200万人突破!」
「キングコング西野、オンラインサロン
6万人突破!国内1位!」


という
「結果」だけをポンと突き付けられた時

「そりゃキングコングだからなぁ」とか
「あの二人だから出来たことでしょ」みたいな

「もともとその人は能力あったんだから」という
考え方、納得の仕方をしてしまいがちと思うんです。

これって、前の項目でお話した
「技術を魔法と形容している」のと
考え方としては同じなのかな
と、思ったんです。

こういう考え方をするようになると
「積み上げる思考が出来なくなる」というか

「継続することで得られる価値」を
知らず知らずのうちに、自分から
放棄してしまう人間になってしまうのでは
ないのかな
と、考えるようになりました。

キングコングのお二人が突出した結果を残せたのは
才能はもちろんですが
凄まじい努力と、作業量がすべてです。
決して「有名だから」ではありません。

ぼくが、キングコングの何を知っているわけでも
ありませんが少なくとも、人が結果を残した時は

そこに至ったその人の背景も想像しながら
自分とも比較して、物事を考えられたら
いいなと、いまは思っています。

【まとめ】

今回は「人は魔法が使えるのか」という
テーマで書かせて頂きました。

「魔法みたいですね!」と褒められて
引っかかるような偏屈は、多分僕だけです💦

相手もそんな深く考えているわけでは
ないと、分かっていますので
職員さんに指摘したりはしません(;^ω^)
(むしろネタを頂けて感謝しています)

有名人が、最初から有名だったわけではないし
結果を残した人の結果が、最初から
そこにあったわけではありませんよね。

色々考えるのは、やっぱり
「自分がより良く生きていくため」です。

他人を否定せず、受け入れながら
その行動や発言を自分の糧に出来ればいいな

思う、ことばでした( *´艸`)

読んで下さって、ありがとうございました。

なめないことは
こんにちは、ことばです( *´艸`)

今回のテーマは
「ナメられたくない人の心理を考えて
職場環境その他もろもろを、良くしようっ」
です。


 

【職場環境、どうですか?】

今のあなたの職場は、あなたにとって
居心地が良い感じるものでしょうか?

空間の心地良さって、一体どんな要素で
決まるのか・・不思議ですよね(*‘ω‘ *)

アウトドア、お好きですか?

・・ごめんなさい、自分は生粋のインドアなので
経験も知識もないのですが

趣味で登山をされる方は、例えば富士山の
8合目くらいに売っているカップラーメンが

今まで食べたカップラーメンの中で
一番美味しかった
というのを聞いた事があります。

多分、このカップラーメンって、普通にコンビニや
スーパーで購入できるものとそれほど変わりませんよね?

富士山で食べるのと、普通に自宅で食べるのの違いって
一体なんなんでしょうか?

・・空気が澄んでいるから?

人の感覚というか、感じ方って不思議ですよね(;^ω^)

もっと身近にいうと、一人より、仲良しの二人で
ご飯を食べた方が美味しく感じますよね。


以前から「仕事」をテーマに据えてブログを書かせて
頂いてもいますが今回は

「職場の空気を良くすればおのずと離職を
考える方が減るのではないか」
という
観点でも、書かせて頂きます。

【人はマウントを取りたがる】

まず、あなたが職場で「嫌だなと感じること」って
なんですか?

もちろん、人それぞれだと思いますが
自分だったら「職員の悪口を職員が雑談している」
場面に出くわしたり

「仕事が出来てないことを本人ではなく
周りの職員に伝える人がいる」

「嫌だな」と思います(;^ω^)

「職場の飲み会」って、あなたは好きですか?

「親睦を深める」ための大事な場だと思いますが
気が付いたら、メンツが固定されていませんか?

最近の若い社会人は、職場の飲み会自体に
必要性を感じない方が多いようですが
ごめんなさい、これは自分的には・・ちょっと
歓迎している状況です( ;∀;)

「職場の飲み会」って、愚痴大会になりませんか?
もしくは、「仕事のダメ出し」(;^ω^)
親睦もなにもあったもんじゃないですよね💦
愚痴や、ダメ出しをされている張本人にしたら。

人って、マウントを取りたがります。

「マウントをとる」とは、
「相手より上のポジションを取り
優位性を自慢したり、威圧的な態度を取る」

という意味だそうです。

プロレスのような物理的なマウントではなく
精神的優位に立つ、という意味でのものです。

語弊を恐れずに書くならば

役職者は、職員に

ベテランは、新人に

経験者は、未経験者に


職場という空間の中では、
容易にマウントを取れる状態にあるわけですが

これを職場でしてしまう人がいると
「職場の空気が悪くなる」ことに
繋がるのかも知れません。

自分の経験上のお話で申し訳ないのですが
マウントを取りたがる精神性の方は、
「ナメられたくない」という意識の強い方が
多かったように思います。

相手に「ナメられる」と、例えば職場では
上司だったら指示が通らなくなる。
先輩だったら、言うことを聞かなくなる、

だから高圧的に話したり、不必要に大きな声で
叱責して、相手が自分より下だと思い込ませる
必要があったのだと考えます。

ですが、飽くまで個人的にはですが

尊敬や信頼は「大きな声で正論を言う人」が
得られるわけではないのかなと思います。


【体罰で、相手が得るものはあるか】

話は変わりますが
ぼくの小学校の頃は、体罰云々の議論は
今ほど活発ではなく、

指導の一環で、先生が生徒を普通に
「げんこつ」をしたりもしていました。

自分もある日、小学校の全校集会で、
ぼんやり参加しながら、教員のお話を
なんとなく聞いていたのですが

集会なので、出席番号順に縦に一列で
並ばされている僕の背後に
いきなり接近してきた体育教師が、無言で

「ガンッ!!!」

と、ぼくの足を思い切り蹴って、無言で離れていきました。

もう何がなにやら分からず、周りに注目は浴びるわ
なんかザワザワされるわで、びっくりしたのと
蹴られたショックと、恥ずかしさで

頭が真っ白になって、貧血で倒れそうでした。

蹴られた後に気づいたのですが
その時、僕は列から少しはみ出していた様子で
それを矯正するため、足を使ってご指導頂いたの
だろうと、後で納得しました。

また、当時の小学校の担任の先生は
クラスの生徒が宿題を忘れた時や
何か問題を起こした時(ささいなケンカなど)

「指導」として
「生徒の頬を両手で持ち、強くつねった後
外側に向かって思い切り引っ張る」
というのを
されていました。

当時は「悪い事をしたぼくらのせい」くらいにしか
思っていませんでしたが
今、改めて文章に起こしてみると

「子供の体に衝撃を与える行為に
教育としての価値があると本気で
思っておられたのかな?」
とか

「あの指導をされて
自分は何かを得られたのかな?」


など、疑問を覚えることばかりでした。

もちろん、先生方を全く恨んでいませんし、
たくさん良い思い出を頂いて、感謝しています。

ただ、自分が教師で、例えば列から少しはみ出していた
生徒がいたら、どう指導するかを考えた時

蹴るような行為は、やはり度が過ていると思うし
宿題を忘れた生徒の顔を
泣くくらいの力でつねる
のも、疑問に思います。

まあ、ぼくが単純に嫌われていただけかも
知れませんけど(;^ω^)

【認知症の方への対応】


 自分は、介護施設で働いていまして、仕事は主に
「認知症高齢者のお世話」となります。

昨今「介護施設での虐待」が報道され
問題となっていますが「虐待」の定義は

「自分が虐待と思っていなくとも、相手や
周りの人間に、そう捉えられるようであれば
それは虐待に相当する」
と、僕は考えています。

この点は「いじめ」と性質が似ているように思います。

もちろん「教師」と「介護職」では
立場が違います。「教育」と「お世話」では
対象への効果を生むための方法も異なるでしょうが

共通して言えることがあるとすれば、相手を
「人格を有する、いち人間として捉えるか、どうか」
だと、考えています。

「子供を子供として捉えるのではなく
人格を有する一人の人間として接する」


「認知症ではなく、その方が積みあげて
来られた人格と、関わる意識を持つ」

これだけで、相手に対しての
自分の言動、行動、態度は、自ずと変化するはずです。

「他人に尊重されている」と、感じる事は
人間を人間たらしめる、重要な要素です。

他人に認められたければ
「自分がいかに優れているか」ではなく
「相手をいかに尊重しているか」
を伝えるべきだと、僕は思います。

【まとめ】

今回は「マウントを取る方の心理」について
書かせて頂きました。

自分にも、そしてもちろん相手にも人生があり
「相手」との関わりは、お互いの一部分を
軽く見せ合っているに過ぎません。


どれほど自分に想いがあろうと、

その表現方法が例えば「体罰」などの
「後々相手に疑問を持たれる可能性を持つ関わり方」
では、本当に勿体ないな
と、思います。

勿体ないと思うのは
「あなたの想いは、相手には伝わっていない」
確信を持って言えてしまうからです。

「ナメられたくない」という気持ちは
疑問を持たれる関わり方を生みだして
しまいやすいような気がします。

相手に対して高圧的にふるまうよりも、
例えば職場でしたら、新人さんにも
ベテランさんにも変わらず

誰に対しても誠実に接するように
心がければ、あなたの価値は
「マウントを表現方法とされている方」よりも

的確に、誠実に、伝わりやすいと思います(*^w^*)

ここまで偉そうに書いてきましたが
かくいうぼくも、人一倍自尊心が強く
「ナメられたくない・・」と常に思っている
人間です💦


ですが、だからこそ
いっぱい失敗した中で、今はこれが
いちばん「人にナメられないやりかたかも!」

思っています。

一緒に、ナメられなくなるその日まで
「相手を尊重して」がんばりましょうねっ

ことばでした( *´艸`)

あやまりことは
こんにちは、ことばです( *´艸`)

今回のテーマは「そんなつもりじゃなかったって
言わない、言わせないために、考えること」
テーマにしたいと思います。

ぼくも、あなたも一度は使い、使われた経験がある
(と思われる)この言葉。

「悲しい気持ちのすれ違い」を少しでもなくすため
あなたが考えるきっかけの助けになれたら
嬉しいです(*^w^*)

よろしくお願い致します。

【そんなつもりでは・・】

ことばは、本当によく失敗してきました。

コミュニケーションが得意ではないですし
「自分が他人に受け入れられるわけがない」
という、歪んだ自意識を抱えていました。

今は介護職をしていますが、その前は
店舗での販売接客のアルバイトなどを
経験しました。

その中で先輩や同僚に
色々と指摘されていました。

例えば先輩に「ことば君、頼みたい仕事があるから、
手が空いたら声をかけてくれる?」

と、朝イチに言われた時

ぼくはその言葉を、額面どおりに受けとめ
「よし、手が空いたら、声をかけさせてもらおう」
午前中・・午後・・と、雑務をしていました。

そのまま夕方になり、
「結局、声をかけられなかったなあ・・」と思っていた所
先輩に呼び出され
「朝、手が空いたら声をかけてって言わなかった?」
と指摘されました。

ぼくはその時初めて「手が空いたら」という
言葉の意図に気付きました。

それは
「手が空かなかったら、声をかけなくても大丈夫だよ」
という意味ではなく

「ことば君も自分の仕事があるだろうから、
すぐとは言わないけど、なるべく早く声をかけてね」

という意味だったということです。

ぼくの事を気遣って、かけて下さった言葉でしたのに
その意味を考えようともせず、自分本位な解釈
してしまったことに、とても情けなくなりました。

その時先輩が「君は仕事を舐めているよね?」
きつい言葉をあえて仰って下さったのですが

自分はまさに「そんなつもりはないんです」
弁解をするしかありませんでした。

あの時「申し訳ありません。
自分は先輩の仰って下さった手が空いたらという言葉を
そのまま受けとってしまったことと

細々とした雑務が続いてしまい、
上手く時間を取る事が出来なかった自分の力量不足で
このような時間まで、先輩に声をかけさせて頂く機会を
持つことが出来ませんでした。

決して仕事を軽んじているわけではありません。」

みたいに説明でき・・ていても、
きっと呆れられるだけだったでしょうが

介護職を始める前は、こういう齟齬が
とてもたくさん、たくさんありました。

これは、自分の中に
「相手が何を求めているのか」を汲み取る意識が
決定的に欠けていたためだと思います。

あなたは、誰かから、または誰かに
「そんなつもりじゃない」と言われた、言った
経験って、おありですか?

とても悲しい言葉ですよね( ;∀;)

出来ればもう二度と、使いたくないですし
誰かに言わせたりもしたくありません。


言語でのコミュニケーションを主な手段としている以上
齟齬が起きることは、仕方のないことなのかも
知れませんが、その機会を極力減らせるよう
考えてみたいと思います。

【では、どんなつもりだったのか?】

相手に「そんなつもりじゃなかった」
言われた時、あなたはどう返しますか?

「では、どんなつもりだったの?」

・・自分には、妥当な返しが
このくらいしか思い浮かびません(;^ω^)

ただ、この返しは、相手を責めているような
ニュアンスを含んでいる
気もしますので
その場で持ち出す返答としては、
あまり適切でないのかなぁとも思います。

色々な状況が思い浮かびますが、こと仕事の場合
相手が「そんなつもりじゃない」と言う状況って

「自分が伝えた事に対して、相手の対応が
その水準に満たなかった時」


「相手が自分の言葉かけを、誤解していた」

「意図を理解しないまま物事を進めてしまった」

みたいなことかなぁと思います。

自分が指示する立場であれば、
相手を責めてしまいやすい状況になりますが

もしも自分が上司で、複数の部下などから
同じように「そんなつもりじゃなかった」という
返答をされた経験がおありならば

「自分の伝え方にも、相手が誤解して
しまいやすい言い回しが、含まれていたのでは?」

のように考え、次から言い方を変えてみるだとか

説明に割く時間を多めに取などの検討は、
言われた側も、してみる方が良いかも
知れませんね( *´艸`)

【双方を大切にする】

「アサーション」という言葉があります。

これは1950年代に、アメリカの
心理療法の中で生まれた言葉で

(当時の)意味としては「(強い表現での)主張」
というものでした。

当初は、自己主張が苦手な方を対象にした
カウンセリング技法として
実施されていたようですが

時代背景の変遷などによって、言葉の意味
意図がより現代に即したものに
変化していきました。

日本での心理学的な和訳としては
本来の和訳である「主張、断言」から受ける
【積極的な自己表現】というよりは

もっと柔らかくて

「相手を知るための自己表現」
「お互いの気持ちを尊重する」

という意図で、使用されています。

・・文章だと、堅苦しく感じますね💦

う~ん・・現代の流行りを取り入れて
簡単にいうと
ですね

Aさん「私は鬼滅(の刃)が好き!あなたは?」
Bさん「私も!え、推し(キャラ)は?」
Aさん「え、聞いてくれる義勇さんやばない?」
Bさん「はいはい(好意的な肯定)私は圧倒的伊之助」

みたいな会話の流れですね(*´ω`*)
※ことばの脳内会話です。実際のファンの方が
こういう会話をされているかは知り得ません💦

今回は女性同士の会話を想定させて頂きましたが

女性は一般的に「共感能力」が男性よりも
高い方が多く「無意識なアサーション」を
実践されておられる方が、多い印象を受けます。

Aさんが唐突に「漫画の話題」を振った時
Bさんは間、髪を入れずに同意し

「好きなキャラクター」を聞き返すという
「発展の姿勢」を示されています。

そしてAさんが「キャラクターの名前」を言いました。
そのお陰でBさんも「自身の主張」を発言できる
流れが生まれて

「私は(嘴平)伊之助が圧倒的に好き」

だと、Aさんに伝える事が出来たわけです。

Aさんも、恐らく普段からのBさんの行動を
観察しながら「自分と趣味が似ているかも知れない」
という感覚を持たれていたのでしょう。

この会話の流れは
「双方を大切にするやり取り」ですよね。
Aさん、Bさん、お互いが「有意義な時間を
共有出来ている」
と感じているでしょうから。

「自己表現」は「相手」あってのものです。

例えば「私は〇〇が好き」と相手に伝えるとき
相手には選択肢が3つ生まれます。

「そうなんだ~」と「共感」するか
「わかる!私は〇〇っ」と「発展」させるか
「え、ないかなぁ」と「否定」するかです


コミュニケーションに長けておられる方は
この「選択肢」を双方にとって
「気持ちの良いバランス」を
見極めながら、選ぶ力があります。

結果「会話が楽しい」と感じたり
「自分の事を理解してくれているな」などと
思ってくれやすくなったりするわけですね。

「アサーション」・・
「自分と相手の両方を尊重する」
ことを意識すれば

「そんなつもりじゃなかった」という
「悲しいやり取り」は、自然とこの世界から
消えていってくれるかも知れませんね( *´艸`)

【まとめ】

今回は「そんなつもりじゃなかったという
言葉を減らすには?」
というテーマで
書かせて頂きました。

ぼくは、自分の拙い言葉かけのせいで
相手とのやりとりに、齟齬が生まれた時
とても、とても、辛く悲しい気持ちになります。

ユーモアも発想力も乏しく、アドリブも効かないため
「喋って伝える」ということに、いつまでも
苦手意識を抱えていますが

だったらせめて文章で、自分の気持ちを
伝える事が出来たらという
思いがあって
こういったテーマでブログを書かせて頂いています。

ぼくが働いている介護の世界にも
「ユマニチュード」という
認知症の方に効果的なケアの方法論があります。

テレビなどで紹介される時には
「魔法」などと称されるものですが
ただの「技術」です。

このブログを続けていく中で
テーマにさせてもらえるかも知れません。
機会があれば、触れさせて頂きますね。

あなたの周りから
「そんなつもりじゃなかった」が
なくなりますように・・(*´ω`*)


このページのトップヘ