ことばの0からのビジネス~ゼロビジブログ~

大阪の福祉施設で働く社会人である「ことば」が インターネットでお金を稼ぐ(月500円でも!)ことを 目標に、ブログを更新しながら ビジネス関連の学習、日々の好きなものや作品、 楽に仕事と向き合うための考え方や、 対人関係での悩みを減らすための価値観をお勉強していきます。 漫画、イラストを描くのも好きです。 記事内のイラストは、ぜんぶ描いています( *´艸`) もっと増やしていきたい・・! よろしくお願いいたします。

こうしんことは

こんにちは、ことばです( *´艸`)

今回のテーマは
「PVとUUのお知らせをします」という
内容です。


このブログのコンセプトである
「アフィリエイトの知識、能力のない人間が
0からブログを始めた場合、稼げるようになるのか」


ありのままにお伝えしようと考えています。

同じようにブログで悩んでいる方の清涼剤になれば
いいなと思っています( *´艸`)

読んでいただけると嬉しいです。


【以前の更新報告の記事】

「第1回ブログの今を、ご報告するの巻」

「第2回ブログの今を、ご報告するの巻」

「第3回ブログの今を、ご報告するの巻」

【ちょっと期間が空きました】

ことばの0からのビジネス~ゼロビジブログ~は
2019年8月2日から始めて、
今回の記事で65記事目です。

第3回から期間が空いていた理由は
がっつり心が折れていたからです(;^ω^)

第3回の報告記事を書いた後くらいから
「ネタが思い浮かばなくて書けない」

「ブログ更新の意義が感じられない」

「自分の性質と、アフィリの噛み合わなさ」

などの悩みと理由が、心を席巻してしまい
すべてが止まってしまいました( ;∀;)

この辺の想いは、記事の後半で書かせて頂きます。

では、2020年4月度、5月度、6月度の
PVとUUの報告と、現在までの総数をお伝えします( *´艸`)

(なぜ4月からなのかは、ライブドアブログの
アクセス数の確認が、過去3ヵ月以前は
できない感じだからです、ごめんなさい💦)

【PVとUUのご説明】

「PV」(ページビュー)とは
このブログが何回開かれたか数値です。

ぼくがブログを開いても、あなたがブログを
開いて下さっても「1」カウントされ、
更新する(ページ移動する)たびに増えます。

「UU」(ユニークユーザー)とは
このブログに訪問して下さったの数値です。

ぼくが訪問しても、あなたが訪問して下さっても
「1」カウントされます。

日付が更新されるまでは、同じ方が
何度ページ更新しても
こちらのカウント(UU)は増えません。

それでは、この記事を書いている
段階の数値をご報告します('◇')

【結果発表】

現在の総PV数が942(推定)
現在の総UU数が574
となっております。

月別で見ますと

2019年8月は、PV154、UU50
2019年9月は、PV220、UU75
2019年10月は、PV39、UU20(26日まで)

(2019年11月~2020年3月の期間は
PV133、UU133(推定)

2020年4月は、PV61、UU55
2020年5月は、PV145、UU107
2020年6月は、PV190、UU134(20日まで)


となっております。

【0から始めるとこんな感じです】

昨年11月から今年の5月中旬までの約半年間は
このブログを全く更新していませんでした。


にも関わらず、平均して月に25人ほど
どなたかが訪問して下さっていた事に
なります。

実際、まだ記事を更新していた
2019年10月の数字よりも、良いものでした。

こんなことって、あるのでしょうか?

実はこれは(ちょっと悲しいのですが)
「ことばのブログが認知されてきた」わけでも
「少しづつ、注目され始めている」わけでもなく

「このブログの中の1つの記事が、特定の言葉で
検索した時、検索順位3位以内に表示されていた」
からだったのです。

2019年の年末あたりまでは
管理画面にはログインして、PVやUUを
確認したりしていました。

もちろん確認するたび「0」の数字が並んでいて
「まあ、それはそうだよな・・」みたいに
諦観し、PCをそっ閉じしていた日々でした。

異変?に気づいたのは、5月に入ってからです。

仕事で、自分的にはかなりショックな事があり
「この経験はプラスに変えないとダメだ」
久し振りにブログの管理画面を開いたのですが

その時、毎日UUとPVが2~4くらいあって
「え、更新してないのになんで?」と
びっくりして「人気記事」の項目をみたら

「とある記事」だけ、他の記事の30倍くらいの
PVがあって(分母は1とか2です、念のため・・)
「え、なんでなんで!」とさらに混乱しました。

慌てて「特定の言葉」で検索してみたら
「検索結果の1ページ目」に、
「このブログのとある記事」が
表示されていたのです(`・ω・´)!

ブログのアフィリエイトを勉強する中で
「SEO」Search Engine Optimization】
(検索エンジン最適化)という概念を知り

「ブログはとにかくSEOが大事」だという事は
知っていましたし、解説動画なども見たのですが

もともと頭が良くないので
意味がよく理解できなかったことと

「SEO主体でブログを書く」ことが
自分の中で「SEOを気にすると、更新する
意欲そのものが奪われてしまうかも」という
危機感を、うっすら感じていたので

「今は書く経験を積み重ねよう」と
あまり重視しないことを決めていました。

そういう経験を経た中で
「更新していないうえに、誰も知らない
ブログの記事が、上位に表示されている」
という事実に気づいた時、唐突に

「そうか、これがブログというゲームなのか」
と思わされて、意識が少し変わりました。

「意識が変わった」というのは、良い意味で
「自分のブログの特別感が薄れた」というか

「記事の内容に関わらず、検索順位が上がれば
PVが伸びる」
という事実を体験できた事で

「あまり気負わなくてもいいのか」
肩の力が抜けたカンジです。

ただ、検索順位がPVに影響を与える事は
実感できたのですが、肝心の
「なぜ検索順位が上がったのか」は
さっぱり分かりませ
・・(;^ω^)

恐らく今年の3月終わりくらいから
上位表示され始めたと思います。それが
「何をきっかけにしたものだったのか」
が理解できない
ため、再現性がありません💦

今もこの記事は上位表示をキープしていて
そのお陰で、毎日UUが見込めています。

このブーストがいつまで続くのかは
分かりませんが、今はとにかく
「毎週更新くらい」を目標に、淡々と記事を
積み重ねていければいいなとおもっています。

目標は1000記事ですっ(`・ω・´)
我ながら頭の悪い目標ですが
息を吸うように継続出来ればいいなっ

読んでいただいてありがとうございました

なめないことは
こんにちは、ことばです( *´艸`)

今回のテーマは
「ナメられたくない人の心理を考えて
職場環境その他もろもろを、良くしようっ」
です。


 

【職場環境、どうですか?】

今のあなたの職場は、あなたにとって
居心地が良い感じるものでしょうか?

空間の心地良さって、一体どんな要素で
決まるのか・・不思議ですよね(*‘ω‘ *)

アウトドア、お好きですか?

・・ごめんなさい、自分は生粋のインドアなので
経験も知識もないのですが

趣味で登山をされる方は、例えば富士山の
8合目くらいに売っているカップラーメンが

今まで食べたカップラーメンの中で
一番美味しかった
というのを聞いた事があります。

多分、このカップラーメンって、普通にコンビニや
スーパーで購入できるものとそれほど変わりませんよね?

富士山で食べるのと、普通に自宅で食べるのの違いって
一体なんなんでしょうか?

・・空気が澄んでいるから?

人の感覚というか、感じ方って不思議ですよね(;^ω^)

もっと身近にいうと、一人より、仲良しの二人で
ご飯を食べた方が美味しく感じますよね。


以前から「仕事」をテーマに据えてブログを書かせて
頂いてもいますが今回は

「職場の空気を良くすればおのずと離職を
考える方が減るのではないか」
という
観点でも、書かせて頂きます。

【人はマウントを取りたがる】

まず、あなたが職場で「嫌だなと感じること」って
なんですか?

もちろん、人それぞれだと思いますが
自分だったら「職員の悪口を職員が雑談している」
場面に出くわしたり

「仕事が出来てないことを本人ではなく
周りの職員に伝える人がいる」

「嫌だな」と思います(;^ω^)

「職場の飲み会」って、あなたは好きですか?

「親睦を深める」ための大事な場だと思いますが
気が付いたら、メンツが固定されていませんか?

最近の若い社会人は、職場の飲み会自体に
必要性を感じない方が多いようですが
ごめんなさい、これは自分的には・・ちょっと
歓迎している状況です( ;∀;)

「職場の飲み会」って、愚痴大会になりませんか?
もしくは、「仕事のダメ出し」(;^ω^)
親睦もなにもあったもんじゃないですよね💦
愚痴や、ダメ出しをされている張本人にしたら。

人って、マウントを取りたがります。

「マウントをとる」とは、
「相手より上のポジションを取り
優位性を自慢したり、威圧的な態度を取る」

という意味だそうです。

プロレスのような物理的なマウントではなく
精神的優位に立つ、という意味でのものです。

語弊を恐れずに書くならば

役職者は、職員に

ベテランは、新人に

経験者は、未経験者に


職場という空間の中では、
容易にマウントを取れる状態にあるわけですが

これを職場でしてしまう人がいると
「職場の空気が悪くなる」ことに
繋がるのかも知れません。

自分の経験上のお話で申し訳ないのですが
マウントを取りたがる精神性の方は、
「ナメられたくない」という意識の強い方が
多かったように思います。

相手に「ナメられる」と、例えば職場では
上司だったら指示が通らなくなる。
先輩だったら、言うことを聞かなくなる、

だから高圧的に話したり、不必要に大きな声で
叱責して、相手が自分より下だと思い込ませる
必要があったのだと考えます。

ですが、飽くまで個人的にはですが

尊敬や信頼は「大きな声で正論を言う人」が
得られるわけではないのかなと思います。


【体罰で、相手が得るものはあるか】

話は変わりますが
ぼくの小学校の頃は、体罰云々の議論は
今ほど活発ではなく、

指導の一環で、先生が生徒を普通に
「げんこつ」をしたりもしていました。

自分もある日、小学校の全校集会で、
ぼんやり参加しながら、教員のお話を
なんとなく聞いていたのですが

集会なので、出席番号順に縦に一列で
並ばされている僕の背後に
いきなり接近してきた体育教師が、無言で

「ガンッ!!!」

と、ぼくの足を思い切り蹴って、無言で離れていきました。

もう何がなにやら分からず、周りに注目は浴びるわ
なんかザワザワされるわで、びっくりしたのと
蹴られたショックと、恥ずかしさで

頭が真っ白になって、貧血で倒れそうでした。

蹴られた後に気づいたのですが
その時、僕は列から少しはみ出していた様子で
それを矯正するため、足を使ってご指導頂いたの
だろうと、後で納得しました。

また、当時の小学校の担任の先生は
クラスの生徒が宿題を忘れた時や
何か問題を起こした時(ささいなケンカなど)

「指導」として
「生徒の頬を両手で持ち、強くつねった後
外側に向かって思い切り引っ張る」
というのを
されていました。

当時は「悪い事をしたぼくらのせい」くらいにしか
思っていませんでしたが
今、改めて文章に起こしてみると

「子供の体に衝撃を与える行為に
教育としての価値があると本気で
思っておられたのかな?」
とか

「あの指導をされて
自分は何かを得られたのかな?」


など、疑問を覚えることばかりでした。

もちろん、先生方を全く恨んでいませんし、
たくさん良い思い出を頂いて、感謝しています。

ただ、自分が教師で、例えば列から少しはみ出していた
生徒がいたら、どう指導するかを考えた時

蹴るような行為は、やはり度が過ていると思うし
宿題を忘れた生徒の顔を
泣くくらいの力でつねる
のも、疑問に思います。

まあ、ぼくが単純に嫌われていただけかも
知れませんけど(;^ω^)

【認知症の方への対応】


 自分は、介護施設で働いていまして、仕事は主に
「認知症高齢者のお世話」となります。

昨今「介護施設での虐待」が報道され
問題となっていますが「虐待」の定義は

「自分が虐待と思っていなくとも、相手や
周りの人間に、そう捉えられるようであれば
それは虐待に相当する」
と、僕は考えています。

この点は「いじめ」と性質が似ているように思います。

もちろん「教師」と「介護職」では
立場が違います。「教育」と「お世話」では
対象への効果を生むための方法も異なるでしょうが

共通して言えることがあるとすれば、相手を
「人格を有する、いち人間として捉えるか、どうか」
だと、考えています。

「子供を子供として捉えるのではなく
人格を有する一人の人間として接する」


「認知症ではなく、その方が積みあげて
来られた人格と、関わる意識を持つ」

これだけで、相手に対しての
自分の言動、行動、態度は、自ずと変化するはずです。

「他人に尊重されている」と、感じる事は
人間を人間たらしめる、重要な要素です。

他人に認められたければ
「自分がいかに優れているか」ではなく
「相手をいかに尊重しているか」
を伝えるべきだと、僕は思います。

【まとめ】

今回は「マウントを取る方の心理」について
書かせて頂きました。

自分にも、そしてもちろん相手にも人生があり
「相手」との関わりは、お互いの一部分を
軽く見せ合っているに過ぎません。


どれほど自分に想いがあろうと、

その表現方法が例えば「体罰」などの
「後々相手に疑問を持たれる可能性を持つ関わり方」
では、本当に勿体ないな
と、思います。

勿体ないと思うのは
「あなたの想いは、相手には伝わっていない」
確信を持って言えてしまうからです。

「ナメられたくない」という気持ちは
疑問を持たれる関わり方を生みだして
しまいやすいような気がします。

相手に対して高圧的にふるまうよりも、
例えば職場でしたら、新人さんにも
ベテランさんにも変わらず

誰に対しても誠実に接するように
心がければ、あなたの価値は
「マウントを表現方法とされている方」よりも

的確に、誠実に、伝わりやすいと思います(*^w^*)

ここまで偉そうに書いてきましたが
かくいうぼくも、人一倍自尊心が強く
「ナメられたくない・・」と常に思っている
人間です💦


ですが、だからこそ
いっぱい失敗した中で、今はこれが
いちばん「人にナメられないやりかたかも!」

思っています。

一緒に、ナメられなくなるその日まで
「相手を尊重して」がんばりましょうねっ

ことばでした( *´艸`)

あやまりことは
こんにちは、ことばです( *´艸`)

今回のテーマは「そんなつもりじゃなかったって
言わない、言わせないために、考えること」
テーマにしたいと思います。

ぼくも、あなたも一度は使い、使われた経験がある
(と思われる)この言葉。

「悲しい気持ちのすれ違い」を少しでもなくすため
あなたが考えるきっかけの助けになれたら
嬉しいです(*^w^*)

よろしくお願い致します。

【そんなつもりでは・・】

ことばは、本当によく失敗してきました。

コミュニケーションが得意ではないですし
「自分が他人に受け入れられるわけがない」
という、歪んだ自意識を抱えていました。

今は介護職をしていますが、その前は
店舗での販売接客のアルバイトなどを
経験しました。

その中で先輩や同僚に
色々と指摘されていました。

例えば先輩に「ことば君、頼みたい仕事があるから、
手が空いたら声をかけてくれる?」

と、朝イチに言われた時

ぼくはその言葉を、額面どおりに受けとめ
「よし、手が空いたら、声をかけさせてもらおう」
午前中・・午後・・と、雑務をしていました。

そのまま夕方になり、
「結局、声をかけられなかったなあ・・」と思っていた所
先輩に呼び出され
「朝、手が空いたら声をかけてって言わなかった?」
と指摘されました。

ぼくはその時初めて「手が空いたら」という
言葉の意図に気付きました。

それは
「手が空かなかったら、声をかけなくても大丈夫だよ」
という意味ではなく

「ことば君も自分の仕事があるだろうから、
すぐとは言わないけど、なるべく早く声をかけてね」

という意味だったということです。

ぼくの事を気遣って、かけて下さった言葉でしたのに
その意味を考えようともせず、自分本位な解釈
してしまったことに、とても情けなくなりました。

その時先輩が「君は仕事を舐めているよね?」
きつい言葉をあえて仰って下さったのですが

自分はまさに「そんなつもりはないんです」
弁解をするしかありませんでした。

あの時「申し訳ありません。
自分は先輩の仰って下さった手が空いたらという言葉を
そのまま受けとってしまったことと

細々とした雑務が続いてしまい、
上手く時間を取る事が出来なかった自分の力量不足で
このような時間まで、先輩に声をかけさせて頂く機会を
持つことが出来ませんでした。

決して仕事を軽んじているわけではありません。」

みたいに説明でき・・ていても、
きっと呆れられるだけだったでしょうが

介護職を始める前は、こういう齟齬が
とてもたくさん、たくさんありました。

これは、自分の中に
「相手が何を求めているのか」を汲み取る意識が
決定的に欠けていたためだと思います。

あなたは、誰かから、または誰かに
「そんなつもりじゃない」と言われた、言った
経験って、おありですか?

とても悲しい言葉ですよね( ;∀;)

出来ればもう二度と、使いたくないですし
誰かに言わせたりもしたくありません。


言語でのコミュニケーションを主な手段としている以上
齟齬が起きることは、仕方のないことなのかも
知れませんが、その機会を極力減らせるよう
考えてみたいと思います。

【では、どんなつもりだったのか?】

相手に「そんなつもりじゃなかった」
言われた時、あなたはどう返しますか?

「では、どんなつもりだったの?」

・・自分には、妥当な返しが
このくらいしか思い浮かびません(;^ω^)

ただ、この返しは、相手を責めているような
ニュアンスを含んでいる
気もしますので
その場で持ち出す返答としては、
あまり適切でないのかなぁとも思います。

色々な状況が思い浮かびますが、こと仕事の場合
相手が「そんなつもりじゃない」と言う状況って

「自分が伝えた事に対して、相手の対応が
その水準に満たなかった時」


「相手が自分の言葉かけを、誤解していた」

「意図を理解しないまま物事を進めてしまった」

みたいなことかなぁと思います。

自分が指示する立場であれば、
相手を責めてしまいやすい状況になりますが

もしも自分が上司で、複数の部下などから
同じように「そんなつもりじゃなかった」という
返答をされた経験がおありならば

「自分の伝え方にも、相手が誤解して
しまいやすい言い回しが、含まれていたのでは?」

のように考え、次から言い方を変えてみるだとか

説明に割く時間を多めに取などの検討は、
言われた側も、してみる方が良いかも
知れませんね( *´艸`)

【双方を大切にする】

「アサーション」という言葉があります。

これは1950年代に、アメリカの
心理療法の中で生まれた言葉で

(当時の)意味としては「(強い表現での)主張」
というものでした。

当初は、自己主張が苦手な方を対象にした
カウンセリング技法として
実施されていたようですが

時代背景の変遷などによって、言葉の意味
意図がより現代に即したものに
変化していきました。

日本での心理学的な和訳としては
本来の和訳である「主張、断言」から受ける
【積極的な自己表現】というよりは

もっと柔らかくて

「相手を知るための自己表現」
「お互いの気持ちを尊重する」

という意図で、使用されています。

・・文章だと、堅苦しく感じますね💦

う~ん・・現代の流行りを取り入れて
簡単にいうと
ですね

Aさん「私は鬼滅(の刃)が好き!あなたは?」
Bさん「私も!え、推し(キャラ)は?」
Aさん「え、聞いてくれる義勇さんやばない?」
Bさん「はいはい(好意的な肯定)私は圧倒的伊之助」

みたいな会話の流れですね(*´ω`*)
※ことばの脳内会話です。実際のファンの方が
こういう会話をされているかは知り得ません💦

今回は女性同士の会話を想定させて頂きましたが

女性は一般的に「共感能力」が男性よりも
高い方が多く「無意識なアサーション」を
実践されておられる方が、多い印象を受けます。

Aさんが唐突に「漫画の話題」を振った時
Bさんは間、髪を入れずに同意し

「好きなキャラクター」を聞き返すという
「発展の姿勢」を示されています。

そしてAさんが「キャラクターの名前」を言いました。
そのお陰でBさんも「自身の主張」を発言できる
流れが生まれて

「私は(嘴平)伊之助が圧倒的に好き」

だと、Aさんに伝える事が出来たわけです。

Aさんも、恐らく普段からのBさんの行動を
観察しながら「自分と趣味が似ているかも知れない」
という感覚を持たれていたのでしょう。

この会話の流れは
「双方を大切にするやり取り」ですよね。
Aさん、Bさん、お互いが「有意義な時間を
共有出来ている」
と感じているでしょうから。

「自己表現」は「相手」あってのものです。

例えば「私は〇〇が好き」と相手に伝えるとき
相手には選択肢が3つ生まれます。

「そうなんだ~」と「共感」するか
「わかる!私は〇〇っ」と「発展」させるか
「え、ないかなぁ」と「否定」するかです


コミュニケーションに長けておられる方は
この「選択肢」を双方にとって
「気持ちの良いバランス」を
見極めながら、選ぶ力があります。

結果「会話が楽しい」と感じたり
「自分の事を理解してくれているな」などと
思ってくれやすくなったりするわけですね。

「アサーション」・・
「自分と相手の両方を尊重する」
ことを意識すれば

「そんなつもりじゃなかった」という
「悲しいやり取り」は、自然とこの世界から
消えていってくれるかも知れませんね( *´艸`)

【まとめ】

今回は「そんなつもりじゃなかったという
言葉を減らすには?」
というテーマで
書かせて頂きました。

ぼくは、自分の拙い言葉かけのせいで
相手とのやりとりに、齟齬が生まれた時
とても、とても、辛く悲しい気持ちになります。

ユーモアも発想力も乏しく、アドリブも効かないため
「喋って伝える」ということに、いつまでも
苦手意識を抱えていますが

だったらせめて文章で、自分の気持ちを
伝える事が出来たらという
思いがあって
こういったテーマでブログを書かせて頂いています。

ぼくが働いている介護の世界にも
「ユマニチュード」という
認知症の方に効果的なケアの方法論があります。

テレビなどで紹介される時には
「魔法」などと称されるものですが
ただの「技術」です。

このブログを続けていく中で
テーマにさせてもらえるかも知れません。
機会があれば、触れさせて頂きますね。

あなたの周りから
「そんなつもりじゃなかった」が
なくなりますように・・(*´ω`*)


たえることは2
こんにちは、ことばです( *´艸`)

今回のテーマは「誹謗と中傷と悪口と
事実の違いを考える」
という内容です。

自分は、介護の仕事をしています。

会社では、社員ブログを書かせて頂いても
いるのですが、ブログを書きながら

「人間は、お互いにどういう心持ちでいれば、
誤解せず暮らせるのか」
みたいな事を
漠然と考えるようになりました。

介護の精神性はおもてなしであり

「相手にいかに心地良い環境を提供するか」
下敷きにしないと、いくら技術を磨いても
良いケアには、繋がらないような気がしています。

ぼくは「伝え方」「言葉」について
やたらフォーカスした記事を書きますが、それは
自分が「人の心持ち」に興味を持っているからです。

今後も、同じような内容を何度も書くかも知れません。
それだけ「伝えたい」という事だと、ご理解頂ければ
嬉しく思います。

ただ「伝えたい」だけで
「正しい」わけではありません。


あなたがブログを読んで下さって
「そうだ」とか「違うだろ」とかいった

「なにか」を考えて頂けるなら
それだけで価値が生まれると考えます。

前置きが長くなりましたが
本題に入ります、よろしくお願い致します。

【人を傷つけるということ】

あなたは「誹謗中傷」をされたことは
ありますか?

「誹謗中傷」の言葉の意味ですが

「根拠のない悪口を言いふらして
他人を傷つけること」
とあります。

「誹謗」とは「悪口を言うこと」

「中傷」とは「根拠のないことを言い、
他人の名誉を傷つけること」
だそうです。


「根拠」の意味は「もとになること」だそうで
つまり誹謗中傷とは

「ありもしない悪いデマを拡散させて
相手を傷つけたり
名誉を棄損させる行為」
を指します。

では仮に、相手に少しでも「根拠になること」
存在した場合「誹謗中傷」という言い方を
する事は、適切なのでしょうか?

その「根拠」を元に他人の「悪口」を言い、
相手を傷つける行為は
誹謗中傷に当たると考えられますか?

僕の、過去の話をしますね。

【事実とは】

僕は人から「誹謗中傷」をされた事は
まだ、一度もありません。

介護の仕事の前は、
アルバイトで店舗接客の仕事を
していたのですが

自分は、仕事の仕方について
色々と先輩から指摘を受けていました。

仲良くもさせて頂いていたので
仕事以外のお話も、出来る関係ではありました。

僕は、自己肯定感の低い人間でしたので
「仕事が雑」「遅い」「言われた事も出来ない」
などの指摘を受ける度に、傷ついていたのですが

あんまり、僕ばかり責められているような
気がしたので、一度指摘して下さる先輩に

「なぜそんな、悪口ばかり言うのですか?」
『あまり傷つけないで欲しい』という
意思表示を込めて、伝えた事があります。

その時先輩は
「悪口を言っているつもりはないよ?
君に伝えているのは、全て俺が感じている
事実を伝えているだけだから」

のような意図の事を冷静に言われて

なんだか逃げ場がどこにもなくて

でも妙に納得して「そうか、悪く言っている
のではなくて、事実を言われているのか・・」

否が応にも思わされたという経験があります。

「悪口」とは
「他人を悪く言うこと」という意味ですが

あの時の先輩が仰るように
例えば仕事が遅い人に「仕事が遅い」
伝えるのは「悪口」ではなく

実際に仕事が遅い(と自分が感じる)相手に
「事実を伝えているという解釈である」という
言い分
は、言い得て妙だと、今でも思います。

では「事実」とは
どういった意味なのでしょうか?

「事実」とは「実際に起こった事柄」という意味で

例えば「AさんがBさんを殴った」という出来事に
対して「100人が100人、同じ状況を目撃した時、
同じ認識をする事柄」
に対して使われます。

「AさんがBさんを殴った」現場を「見た」とき
「BさんがAさんを殴った」「認識」する人は
いらっしゃらないです。

その中で、関係性、利害、感情、打算なども
交えながら「事実」「真実」にして
人に伝えます。

「事実」は客観的
「真実」は主観的
なのだそうです。

ですので「AさんがBさんを殴った」
という事実を「目撃」した人が
(Aさんは、Bさんに脅されていたのかも)とか
(Bさんが挑発していたのではないか?)などと

「事実認識を積み重ね、独自の解釈」をした上で
発言、発信する情報は「真実」
といいます。

言葉の上では
「事実は、いつもひとつ!
真実は、人の解釈の数だけ存在する!」

という事なのですね。

【事実がひとつならば】

では、先ほどの質問に戻りますね。

「根拠」を元に他人の「悪口」を言い、
相手を傷つける行為は
「誹謗中傷」に当たるのか?
ですが

「それは、相手が判断することであり
発信者は、最大限の配慮が必須」
だと考えます。

「悪口を言われる根拠」が相手にあろうと
なかろうと、社会の中で人と関わって
こられた人であれば

相手に「悪口」と捉えられないように
「自分の想いを伝える」という
「言葉の選択」が出来る
と思っています。

「相手を思いやる気持ち」への配慮が欠けた発信は
相手に「これは自分への誹謗中傷だ」と
思われてしまう可能性が、格段に高まります。


「事実」はひとつしか存在しませんが
「それをどのように表現するのか」
自分次第ですよね。

「悪口に聞こえる伝え方」
「ただの誹謗中傷に聞こえる伝え方」
「自分の想いを相手に届かせる伝え方」
「感動させる伝え方」・・・

言葉は
「事実をデコレーションするセンスそのもの」です。

無数の言葉の中で、なにを選びとるかで
相手は「あなた」という存在を作りあげます。

特にインターネットでの書き込みで顕著ですね。
こういったブログ、SNSでの文章のやりとりでは

書いた本人に、まったくそのつもりがなくても
読まれた方が、不快に思われるような事が
とても多いです。

【ま と め】

今回は「誹謗」「中傷」「悪口」「事実」の
違いを考える
というテーマで
書かせて頂きました。

自分も含めた「日本国民総発信者」時代である
いまを、ゆるゆる生き抜くために

①面と向かって、言えないようなことは
文章でも伝えない。

➁文章で相手に伝える必要がある時は、
普段の30%増のテンションで、普段の
2倍、言葉を尽くす。

③色々、思うだけにする。


くらいのことは、意識するべき
なのかなと考えています。

いつもえらそうに書いていますが
ことばも、まったく出来ていません。

でも「自分にとって」ではなく
「みんなにとって、優しい世界」が好きなので
今後も、こういうことをゆるゆる書いていけたら
いいなと思っています。

読んでくださって
ありがとうございました( *´艸`)


おりあいことは
こんにちは、ことばです( *´艸`)

今回のテーマは「上手な折り合いの付け方」
についてです。

【折り合いとは?】

「折り合い」の意味ですが
交渉などにおいて、互いにある程度譲り合って
双方が納得できる妥協点を定めること。

互いに意見が対立しないポイントを見出す

とあります。

仕事が嫌になる時って、大体のケースで
「〇〇と折り合いが付かなくなる」場合なのかな
と、思っています。

自分の周りの方々は、大概がそうでした。

ぼくは、今までのバイト歴も含めて
自分から「退職」を選んだ経験はありません。
使い物にならなくて
クビになってばかりでしたので。


今は介護職ですが
介護の業界に入って、まず驚いたことは
「○○が納得出来ないから辞めます」
「○○さんと合わないので辞めます」という
理由で、退職を選択される方が、
とても多いと感じたことでした。

飽くまで主観ですが、他の職種より
「折り合いがつかなくて辞める」という
ケースが多いように思います。

それは、介護士の慢性的な人材不足で
職場を吟味出来ること

(施設に寄りますが)無資格でも働けるなど
採用の間口が広いので、自分に合う職場探しも
比較的容易であることなどが

比較的簡単に、合わなければ別の職場を探そう
思う要因となっているように感じます。

【仕事はしんどいもの】

介護に限らず、仕事はどうしても
継続することが、しんどくなる時もあります。

同僚、部下、上司との人間関係を筆頭に、
モチベーションの低下、環境の変化、
異動、栄転、左遷・・

そんな時、自分の気持ちと上手に折り合いを
付けることが出来れば
、退職を選ばなくとも
なんとかなる・・かも知れません。

あなたのなかの「常識」って、なんですか?

誰かに質問した時に
「そんなことも分からないの?」って
言われてしまうようなこと全般が、
「常識」というものかも知れません。


「常識」は、仕事では如実に表れます。

例えば、グループホームで勤務される
男性介護士の中には、最初は
お米のとぎ方、洗濯物のたたみ方
洗濯機の使い方
など、日常的なあれこれが
分からない方が、いらっしゃいました。

これらは、女性介護士の多くの方には
「常識」の範疇かと思います。

ですが、例えばこれを指導の時に
「え、洗濯機も使ったことないの?」
というリアクションをされると、やっぱり
その方には辛いわけです( ;∀;)

その逆に、洗濯機は使えるけど
パソコンが苦手・・という方も
いらっしゃるかも知れません。

もしパソコンの使い方を指導される時
「え、電源の付け方も分からないの?」
みたいなリアクションを取られたら
腹が立ちませんか?

「自分が知っているだけで、それが
なんでも常識と思うなよ」
って!

「常識」という言葉には、罠が潜んでいます。

お互い、全然折り合いがついていないのに
この言葉だけで、無理やり物事を
着地させようとすると、
トラブルの元になります。

【言葉を尽くすこと】

介護の職場では、申し送りという
業務があるのですが
利用者様の周辺症状を説明するとき

暴力を振るわれ、暴言を吐かれた」とか

割と大きめの独語でした」とか

「あの人の物盗られ妄想は、かなりヤバい」みたいな
表現を多用される方がいらっしゃいます。

「常識」と同様、こういうあいまいな表現は、
認識の齟齬を生みやすいです

人により「暴言、暴力と感じる度合い」は
全然違います。

「死んでしまえ!!」は暴言ですか?

「馬鹿」は暴言ですか?

「身体的特徴を揶揄する言葉」は暴言ですか?


「あなたにとってどうなのか」
お互い分からない以上、物事を伝達する時は

例えばですが「○○と言われました」
「右手で背中を強く押されました」
のように、状況をなるべく言葉を尽くして説明したり
正確な表現を使うようにするなど、

「どうすれば状況を正確に伝えられるのか」を
心がけたいものですね( *´艸`)

【まとめ】

今回は「折り合い」の意味と
「常識」という言葉に潜む齟齬という罠に
ついて、書かせて頂きました。

人と、折り合いが付かなくなると
辛く、苦しいものです💦

この苦しさを少しでも解消するために
相手の事を知ろうと努力したり
理解しようと努めます。

人の相互理解が少しでも進み
気持ちのすれ違いから生まれる
悲しい事件が減ればいいなと願う、ことばでした。

読んで下さって、ありがとうございました( *´艸`)


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